ポール・ゴーギャンの「われわれは何者か・・・」
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必死で生きる民衆の姿へと変わる印象派の時代・・・
そして、人は生まれ死ぬまで、何故に生まれ何をなし、その死後は、
しかも、その生きる意味を知る人はいない。
しかしここに、1897~1898年にタヒチで苦難と挫折の中から描かれた一枚の絵がある・・・
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
(仏:D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」 " D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?" 1897年~1898年|油彩、カンヴァス|139.1 cm × 374.6 cm ボストン美術館蔵|Museum of Fine Arts, Boston ............................................................................................................... ゴーギャンは、この絵を描き上げた後に自殺をはかり未遂に終わる、 画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まり、 中央の人物たちは成年期を過ごし、左側の人物たちは死を迎え年老いた老女、 そして左上にタヒチの創造神タアロアが描かれている・・・ ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン: Eugène Henri Paul Gauguin (1848年~1903年) |
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)は1848年(江戸時代の弘化5年、嘉永元年)、二月革命が起こったパリ市内のノートル=ダム・ド・ロレット街(9区)で共和系のジャーナリストの父クローヴィスと社会主義系の母アリーヌの間に生まれた・・・
時に・・・
ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い迫害を恐れた一家は、パリを離れてペルーに向かったが、父クローヴィスが航海中に急死する。残されたポールとその母と姉は、リマの有力者の豊富な大祖父を頼り恵まれた4年間を過ごし、ゴーギャンが7歳の時、一家はフランスに戻り祖父の死により父の故郷のオルレアンで生活を始める・・・
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←「黄色いキリストのある自画像」
1889年~1890年 | 油彩・画布 | 38×46cm|オルセー美術館蔵
(二月革命)↓
14歳の時、カトリック系寄宿学校からパリの海軍予備校に入りフランス海軍に入隊し、23歳の普仏戦争後の1871年、パリに戻り母の口利きによりパリ証券取引所での職を得て株式仲買人として働くようになった。その後11年間、実業家として成功し1879年頃には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得、1873年にデンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年-1920年)と結婚し、2人の間には、エミール/アリーヌ/クローヴィス/ジャン・ルネ/ポール・ロロンの5人の子供が生まれ幸せな順風満帆の時が流れていた・・・
ゴーギャンは、1873年頃から余暇に絵を描くようになり、印象派の画家たちの作品を購入したり、ピサロやセザンヌと仲良くしたり、家もパリ15区のヴォージラールに引っ越し、家にアトリエを持ち、本格的に絵を描きだす・・・
しかし1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場もその影響を受け、ゴーギャンの収入や資産は急減、職も無くし、1884年には生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図ったがうまくいかず、妻のメットはデンマークのコペンハーゲンに戻り、ゴーギャンもコペンハーゲンで、防水布の外交販売を始めたが失敗。妻メットの外交官候補生へのフランス語の授業で家計を支える状態であり、ゴーギャンは1885年、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻っている・・・ゴーギャン37歳
そして、画家として生計を立てようとしたが現実は厳しく、困窮と雑多なバイトと収集していた絵画を売却しながら、1886年にはブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らし、シャルル・ラヴァルとパナマやマルティニーク島への旅に出かけるも、パナマ滞在中に破産し本国に強制送還され、1888年には、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で9週間共同生活を送り「ゴッホ耳切事件」を起こしている・・・
ポン=タヴァン1888年、ゴーギャンは最前列右から3番目
←(画面をクリックすると500 x 393pixに拡大します)
"Le Moulin David " [Landscape in Brittany. The David Mill] 1894年|油彩・画布 |73 × 92 cm オルセー美術館(パリ)|Musée d'Orsay, Paris |
時代は・・・
1870年~1871年プロイセンとの普仏戦争に敗れたフランスは第三共和政に移行、50億フランもの莫大な賠償金を課せられ経済は困難に直面し、デフレ政策で市場価格は総崩れ、綿の価格は1872年から1877年までの5年間で半値まで下がり、穀物価格も三分の一まで下落し、経済成長率が止まり国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を飲み込み多くの投資銀行が破産に追いやられ、遂に1882年にフランスの金融恐慌(Paris Bourse crash of 1882)が発生する・・・
その暗い時代を経た後、第二次産業革命が進み近代産業国家へと発展し、街にはガス灯やカフェ、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄え、海外へのフランス植民地も、ゴーギャンが行くタヒチは1880年タヒチ国王ポマレ5世によって主権譲渡を宣言し、フランス領ポリネシアとして植民地になり、1887年にはアジアのフランス領インドシナ、地中海を挟ん北アフリカや1895年にはフランス領西アフリカが成立。フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外植民地を有し、その植民地帝国は大英帝国に次ぐ規模へと拡大する・・・
そしてパリは、1889年のパリ万国博覧会に時代の象徴とも云えるエッフェル塔が建設され、1900年のパリ万博を頂点に第一次世界大戦勃発(1914年)まで、パリが繁栄した華やかな時代、ベル・エポック(Belle Époque)と呼ばれる「良き時代」に到達する・・・
それは、世界中のあらゆる文化を吸収し、東南アジアの仮面やアフリカの木彫、東洋の陶器に磁器や日本の浮世絵など、世界の文化の坩堝(るつぼ)の様な街へと変貌していく・・・
"Vision After the Sermon:Jacob Wrestling with the Angel" 1888年|油彩・画布 | スコットランド国立美術館|73 cm x 92 cm |
そして、大きく民衆にシフトした「美」の時代も・・・
1890年ゴッホが亡くなり、ロートレックは1901年に故郷のマルロメ城で息を引き取り、ピサロは1903年に亡くなり、1905年にはサロン・ドートンヌで、フォーヴィスム (野獣派) が生まれ、1906年にはセザンヌがエクス=アン=プロヴァンスで亡くなっていく・・・
そして、モディリアーニが1906年にパリのモンマルトルにやってきた時、ユトリロが白の時代を迎えはじめ、美の時は、エコール・ド・パリ(École de Paris)の時代を迎えようとしていた・・・
"Siesta" 1892〜1894年| 油彩・画布 |89 x 116 cm メトロポリタン美術館|ニューヨーク |
そして、ゴーギャンの伝説の日々が通り過ぎる・・・
1891年パリのオテル・ドゥルオーでの作品の売立てが成功し、その資金でコペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れ別れを告げて、その年の4月1日タヒチへと出航する・・・
それは野性を愛し芸術的情熱に満ちた野性人ゴーギャンが云うところの、ヨーロッパ文明の「世俗的因習」からの脱出の先にあるものを求めて、フランス領ポリネシア植民地、タヒチのパペーテにたどり着く・・・ゴーギャン43歳
滞在費が尽きる約2年間でゴーギャンの80点余の傑作の多くが生み出され、1893年フランスに戻った後ポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会である程度の成功を見せるも、遺産相続などの金銭問題をめぐって妻メットと争い、破局は決定的となり、元来わがままなゴーギャンはパリでの居場所を無くし再びタヒチへと旅立った・・・
2度目のタヒチ滞在・・・
ゴーギャンは、1895年再びタヒチに向けて出発し、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らし、1897年4月、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取り、悪化する健康や借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれ、その年、自ら畢生の傑作と認める大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を仕上げ作品完成の後、自殺をはかり未遂に終わる・・・
1901年パペーテより奥の未開マルキーズ諸島のヒバ・オア島に住み始め、2階建ての家「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の家)」"La Maison du Jouir"で暮らし、1903年心臓発作で死んでいるのを近くの住人に発見され、55年の生涯を閉じた・・・
妻メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったのは、
およそ4000フランだったと云う・・・
"Femmes de Tahiti" 1891年|69×91.5cm | 油彩・画布 オルセー美術館(パリ)|Musée d'Orsay, Paris |
では、妻子を顧みず遠い南国タヒチで、
ゴーギャンが求め描いたものは何なんだったのだろうか?・・・
"Vahine no te vi (Femme au mango)" 1892年|70×45cm | 油彩・画布 | ボルティモア美術館:Baltimore Museum of Art ................................................................................................................... ゴーギャンが第一次タヒチ滞在期の現地で結婚したテハマナ(通称テフラ、当時13歳) |
ゴーギャンの絵に込められた宗教的な匂いやタヒチの古代マオリ(Māori)の宗教観や神秘性、
自然崇拝や霊などにシヤーマニズムの匂い、絵の題名も現地語が使われていく・・・
Mahana no atua (Jour de Dieu)) 1894年 66cm×108cm | 油彩・画布 | シカゴ美術館:The Art Institute of Chicago ............................................................................................................ 三人の人物は、画面左に横たわる「誕生」と、中央の髪を梳かす女性「生」と、 右の背中を向けて横たわる「死」の、三女性はゴーギャンの死生観や人生観で、人の一生の象徴化であり、 中央の女性の背後にはタヒチの神像、創造神タアロアが描かれている |
それは野性人ゴーギャンが創り上げたアイデンティティーなのか?
そしてそこに西欧文明を否定し精神文明の楽園の様な世界に込められたメッセージは・・・
ジャーナリストの家に生まれ、幼い頃のペルーのリマの風景、カトリック系寄宿学校の規律の日々、
なんの不自由のない家族に囲まれたパリでのトレーダーの日々から、
パリの株式市場が大暴落した天国から地獄の日々へ、
ポン=タヴァンの独自の民族性を継承する宗教と生活、
そしてタヒチでの生と死の自然感、その旅の果てに見つけた神秘の生命観・・・
"Ea Haere ia oe (Où vastu ?)" 1893年|油彩・画布|91 cm x 72 cm エルミタージュ美術館:Государственный Эрмитаж|サンクトペテルブルク |
20世紀の偉大な小説家サマセット・モーム(William Somerset Maugham)が、
“東洋の真珠” と賛辞するシンガポールのラッフルズ・ホテルの一室でタイプライターを叩きながら、
画家ポール・ゴーギャンをモデルにした、
絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を、
友人の一人称という視点で1919年に書きあげた、
若干モームにデフォルメされた小説「月と六ペンス」(The Moon and Sixpence)は、
人間が内存する狂気に似た芸術的情熱の「月」と、
社会を成しうる世俗的因習の貨幣価値としての「六ペンス」にポール・ゴーギャンを置き、
タヒチの現地妻に、死後は家もろとも作品をも焼き払わせて小説は終わる・・・
"Hina Te Fatou (La lune et la terre)" 1893年|114.3×62.2cm | 油彩・画布 ニューヨーク近代美術館:MoMA | The Museum of Modern Art, New York ................................................................................................................... タヒチのマリオ族に伝わる古代ポリネシアの神話、 月の神ヒナが必ず死が訪れる人間に、生き返るように大地の神ファトゥに懇願すが、 ファトゥがその願いを拒否するという逸話・・・ |
しかし、ゴーギャン死後の絵の来歴は・・・
1898年にゴーギャンがこの絵画をフランス人画家・美術収集家、
ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレェ(en)に送っているのが確認され、
その後、何人かのパリやヨーロッパの画商や収集家の手に渡り、
1936年にニューヨークのマリー・ハリマン・ギャラリーが入手し、
ボストン美術館がこの絵画を1936年に購入する・・・
1902年|73 x 92 cm|油彩・画布 スタブロス・ニアルコス・コレクション(個人蔵)|ギリシャ (Σταύρος Νιάρχος、ラテン文字転記:Stavros Spyros Niarchos) |
ゴーギャンがパリの都会よりも野性的で素朴な自然に近い生活に「美」を求めて、
1891年にタヒチに渡り、2度のタヒチ滞在の、
1897年から1898年に描き上げたゴーギャンの代表作・・・
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」は、
ゴーギャンが独自に様式化し、精神世界を描いた死の間際の作品として・・・
それは、タヒチが持つ自然の内に点在する「美」と共に、
我々に人生への深い問いかけのメッセージを残して、ゴーギャンの魂は南の島に消えた・・・
(画面をクリックすると640 x 800pixに拡大します)
油彩・キャンバス|113×92㎝|1889年|プラハ国立美術館蔵:Národní galerie v Praze|チェコ共和国
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン
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Eugène Henri Paul Gauguin
(1848年~1903年)
(以下・参考サイト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・ゴーギャン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・ゴーギャンの作品一覧
http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/painting/commentaire_id/landscape-in-brittany-16465.html?cHash=b
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html
http://www.wikiart.org/en/paul-gauguin/barbarian-music-1893
https://ja.wikipedia.org/wiki/我々はどこから来たのか_我々は何者か_我々はどこへ行くのか
https://ja.wikipedia.org/wiki/ボストン美術館
Paul Gauguin
http://www.wikigallery.org/wiki/artist39240/Paul-Gauguin/page-1
Paul Gauguin|The Life, Paintings & Sculptures of Paul Gauguin
http://www.arthistoryarchive.com/arthistory/postimpressionism/ArtHistory-PaulGauguin.html
1848年の二月革命
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-89.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/1848年のフランス革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナポレオン3世
探訪記>カルナヴァレ博物館(パリ) :
http://blog.livedoor.jp/tullysworldsouvenir/archives/3159530.html
「フランス2月革命の日々」:トクヴィル回想録
http://blogs.yahoo.co.jp/table09302008sounds/5553699.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/大不況_(1873年-1896年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドレフュス事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/第二次産業革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/タヒチ島
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランス語圏
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランス植民地帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランス領西アフリカ
ポン=タヴァン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポン=タヴァン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポン=タヴァン派
https://www.google.co.jp/maps/place/フランス+ポン=タヴァン/@46.8907491,1.8028589,6z/data=!4m2!3m1!1s0x4810e7c20da135c9:0x40ca5cd36e56410
ブルターニュの旅 ゴーギャンの黄色いキリストと森と水の町 Pont- Aven(ポン=タヴェン)
http://4travel.jp/travelogue/10603706
ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展メモ:ポン=タヴァンと森
http://ameblo.jp/about-art/entry-12098721436.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/月と六ペンス
月 と 六 ペ ン スー 狂 気 の 画 家 の 生 き 様 ー
http://www.geocities.jp/kyoketu/1400.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/サマセット・モーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/ラッフルズ・ホテル
ラッフルズ・ホテル日本語公式ホームページ
http://www.raffles.jp/singapore/
旅行記|ラッフルズ・ホテル - シンガポール|2005.09
http://washimo-web.jp/Trip/Singapore03/raffles.htm
03. サマセット・モーム・スウィート
http://www.ictov.jp/index.php/2013-05-05-11-34-49/163-colombo20-2
ゴーギャン - KIRIN~美の巨人たち~2007/01/06 -
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/070106/
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