Walk神戸-22 [孫文記念館] -移情閣の孫文-
|
1913年(大正2年)3月14日に孫文が神戸を訪れた時に、当時、親交の深かかった呉 錦堂(神戸中華商業会議所会頭)により「松海別荘」で孫文歓迎昼食会が開かれている・・・
孫文記念館|神戸市垂水区東舞子|Googleマップ
(2016年2月19日撮影)
当時、外国とはすべて船の航路であり上海や香港とは、日本では有数の港であった神戸港を必ず経由していたため、神戸と孫文との関わりは非常に多く、孫文が最初に日本の土地を踏んだのも神戸であり、最後に日本を訪れたのも神戸だった・・・
孫 文(孫 中山)は1866年(慶応元年)に清国広東省香山県翠亨村の農家に生まれ、当時のハワイ王国にいた兄の孫 眉を頼り、1878年、オアフ島ホノルルに移住しイオラニ・スクールを卒業、1883年中国に帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学び、ポルトガル植民地のマカオで医師(眼科医)として開業する・・・
長い間、満州民族だった清王朝の植民地にされていた漢民族の独立を願う革命思想を抱き、広州での武装蜂起を企てたが、日清戦争の終結後の1895年(明治28年)、密告で頓挫し同志3人と共に香港を脱出し、日本郵船のボンベイ航路の貨物船「広島丸」で神戸にたどり着き日本に亡命する・・・
2〜3日停泊後、横浜港へ向けて出港し、東京で宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満や、平岡浩太郎と出会い、犬養毅が斡旋した早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷で、東京での活動費と生活費の援助を受けている・・・孫文29歳
滅びゆく清国が1900年に欧米列国に宣戦布告した「義和団の乱」は、わずか2か月で欧米列強国軍に首都北京及び紫禁城を制圧され(北京の55日)、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされ、革命運動は各地で澎湃として沸き上がる。孫文も革命家として革命資金を集める為、世界中を巡り、アメリカを経てイギリスに渡り、1905年にヨーロッパから帰国中のスエズ運河で日露戦争(1904年〜1905年)での日本の勝利を知り、東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成し留学中の蒋介石と出会う・・・
そして1911年、武昌蜂起から「辛亥革命」へと発展し、革命家・孫文はアメリカから上海に帰着、翌1912年1月1日、孫文を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。宣統帝が退位して清朝は滅亡する・・・孫文45歳
↑(上は若い頃の孫文、右は呉 錦堂)→
清王朝後の中華民国(1912年-1949年)は、国民党の孫文の後に清朝の軍人だった袁世凱が第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任後、独裁色をおび1915年に共和制を廃止し国民党の弾圧をはじめる。孫文は袁世凱に対して第二革命を起こすも逆に袁世凱に潰され、1913年(大正2年)大阪商船の「撫順丸」で台湾へ、日本行きの「信濃丸」に乗換え神戸に到着し、再び日本に亡命する。しかし袁世凱は帝政を復活させ自らが中華帝国大皇帝に即位するも翌年に病死し、遂に中国は混迷の軍閥割拠の時代へ突入する・・・
世界も、1916年の世界恐慌、1917年のロシア革命、1917年には1914年に始まった第一次世界大戦の終結へと、時代は激しく動いていた・・・
彼が主張する民族・民権・民生の三民主義、しかし民族主義者でありながらいまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼り、或いは国籍を変え、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を組み、目先の目標のために短絡的であった。が、しかし欧米の帝国主義に対し東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた事は間違いない・・・
そして神戸の華商の呉 錦堂以外でも日本人との関わりは深く、政治団体玄洋社の頭山満や、平岡浩太郎、政治家の犬養毅など・・・
或いは現在の貨幣価値で1兆円に及ぶほど革命への援助資金を支援した、日活の創業者のひとりで実業家でアジア主義者の梅屋庄吉(うめや しょうきち)や、川崎重工業の松方幸次郎、日本人妻だった大月薫や愛人の浅田春など・・・
1924年(大正13年)、孫文は広州を出港し「上海丸」で長崎から神戸に着き、オリエンタルホテルに滞在、これが孫文最後の日本訪問となった・・・
そして11月28日午后、神戸商業会議所の依頼で兵庫県立神戸高等女学校の講堂で「大アジア主義講演」を行っている。主催は神戸商業会議所、後援は大阪朝日新聞社、大阪毎日新聞社、神戸新聞社、神戸又新報社・・・
以前よりガンに侵されていた孫文は、
1925年(大正14年)療養先の北京で客死する・・・孫文59歳
中国革命に費やすこと40年余・・・
「革命尚未成功、同志仍須努力」の遺言を記し、
(革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)
しかし、孫文が革命で未来の国に架けた橋は彼の死後二分する・・・
蒋介石率いる中華民国は台湾に、
毛沢東の共産党国家は、一党独裁という権力の上に不思議にも資本主義を手にし、
中華人民共和国となっている・・・
(以下・参考サイト)
「呉 錦堂」(ご きんどう)
1855年(明治18年)〜1926年(大正15年/昭和元年)
咸豊(かんぽう)5年9月清(しん)(中国)浙江省生まれ。明治18年に来日、神戸を本拠にマッチ、綿花などをあつかった。37年日本に帰化する。神戸中華商業会議所会頭をつとめ、神戸中華同文学校などをつくった。大正15年11月25日死去。72歳。
.....................................................................
明治大正期の在日中国人貿易商。中国読み「ウ・ジンタン」。浙江省の生まれ。上海での商業活動を経験し、明治18(1885)年に長崎へ渡来、23年に神戸に移り、怡生号という貿易会社を設立。開港後の上海は、中国の内外流通の中継点であり、拡大する商業機会に乗じて台頭したと考えられる。
海運業にも力を入れ、自船による活動は競争力を高めた。神戸に近代的綿糸紡績業が発展するや、外国棉花の需要拡大に対応して、中国棉花取引の25%を占める勢いを示す。営業税345円の納入実績(1901年)は、在日中国商のなかでも上位の成績であった。紡績業との関わりでは、大株主でもあった鐘淵紡績との関係が強い。のちに、東亜セメント、大阪莫大小を設立するなどの多角化は、流通から生産過程へ進出する企業家としても注目される。
孫文との交流も有名であり、神戸の別荘であった移情閣は孫中山記念館として残されている。<参考文献>中村哲夫『移情閣遺聞』、籠谷直人「アジアからの“衝撃”と日本の近代」(『日本史研究』344号)(籠谷直人)
https://kotobank.jp/word/呉錦堂-1074550
第五部 呉錦堂 -神戸と中国-|1.呉錦堂、プロローグ
http://www.eonet.ne.jp/~yuzo/gokindou101.html
「孫文記念館」(そんぶんきねんかん)
兵庫県神戸市垂水区の舞子公園内にある博物館。旧称は孫中山記念館(そんちゅうざんきねんかん)。八角形の中国式楼閣『移情閣』は1915年築の現存する日本最古のコンクリートブロック造建造物で、国の重要文化財に指定されている・・・
辛亥革命の父と仰がれる孫文(孫中山)を顕彰する日本で唯一の博物館として、神戸潜伏中の彼をかくまった川崎重工業の松方幸次郎との縁もあり、1984年に開設された。建物は、華僑の貿易商、呉錦堂(1855年~1926年)の舞子海岸にあった別荘・「松海別荘」内に1915年に建てられた八角形の中国式楼閣「移情閣」と付属棟などである。
建物は1890年代に現在の付属棟が建てられ、移情閣等が大正時代に新たに建てられた。 舞子公園内には2000年に移築された。松海別荘は1913年に孫文一行が神戸を訪れた際の歓迎会の会場であった・・・
楼閣の「移情閣」という別称は、窓から六甲山地、瀬戸内海、淡路島、四国と「移り変わる風情」を楽しめることから名づけられた。また、楼閣の外観が六角形にも見えることから地元では「舞子の六角堂」と呼ばれている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫文記念館
孫文記念館|オフィシャルサイト
http://sonbun.or.jp/jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫文
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒋介石
https://ja.wikipedia.org/wiki/毛沢東
https://ja.wikipedia.org/wiki/中華民国総統
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国の歴史
中華民国 (1912年-1949年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/中華民国_(1912年-1949年)
呉錦堂ー神戸と中国ー
www.eonet.ne.jp/~yuzo/gokindou101.html
“相場師”呉錦堂
singetu.ddo.jp/uminaritamazu/go_kindou.htm
http://sonbun.or.jp/jp/index.php?option=com_content&task=view&id=14&Itemid=31
https://ja.wikipedia.org/wiki/梅屋庄吉
東京紅團(とうきょうくれないだん)|文学散歩情報
http://www.tokyo-kurenaidan.com/index.htm
東京紅團(とうきょうくれないだん)|文学散歩情報|●孫文を歩く|◎神戸を歩く-1・2・3-
http://www.tokyo-kurenaidan.com/sun-yat-sen-kobe1.htm
孫文を歩く 東京編 -5-
http://www.tokyo-kurenaidan.com/sun-yat-sen-tokyo5.htm
孫文の年表
http://www.tokyo-kurenaidan.com/sun-yat-sen-kobe3.htm
孫文(孫中山)のマカオを歩く
孫文は医者(眼科医)になるため1886年(明治19年)広州の博済医院付属南華医学校に入学しています・・・
http://www.tokyo-kurenaidan.com/sun-yat-sen-macau.htm
孫文年表
http://www.mapbinder.com/Map/World/China/Information/Sonbun.html
咸豊(かんぽう)5年
https://ja.wikipedia.org/wiki/咸豊
https://ja.wikipedia.org/wiki/武昌起義
革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。 この結果、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生するという世界史上に大きな影響を与えた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/辛亥革命
昔のたるみ写真館(年代別)
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/tarumi/shoukai/gaiyou/shashinkan/index_menu.html
姫路城、神戸港・兵庫明治写真帖
http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_mitsumasa/62558885.html
神戸市の人口推移と歴史概要
http://seiyo39.exblog.jp/20646977/
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/general/history.html
神戸のこといろいろ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/koubenokotoiroiro-p6.htm
『北京の55日』(ペキンの55にち、英語: 55 Days at Peking)は、1963年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画。清朝末期に義和団の乱が起こり、首都北京に義和団が押し寄せて、外国人居留区が包囲されて11か国の居留民が籠城して55日間を戦った物語を描いている。ニコラス・レイ監督で主演はチャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デヴィッド・ニーヴン。音楽はディミトリ・ティオムキン。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北京の55日
Copyright © 2016 guchini.exblog All Rights Reserved.