Walk神戸-24 [蕪村の菜の花]・・・
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↓(以下3枚の写真は、2004年4月4日撮影の芦屋浜の埋立地に植えられた菜の花畑の風景・・・)
「菜の花や 月は東に 日は西に」 与謝蕪村(蕪村句集)
春の夕暮れ時、見渡すかぎり一面黄色に咲き広がった菜の花畑、地平の東の空には春月が昇り始め、
夕日が西の空に、沈もうとしている・・・
それは見事な情景対比の中で・・・・・・
海が見える六甲山地の摩耶山の「海と山」・・・
海の青と菜の花の黄色の反対色の色相環(しきそうかん)の「黄と青色の補色」・・・
地形は朝の日の出と夕の日の入りの「東と西」を見下ろし・・・
天空に「月と日」が同時にその姿を現す・・・
東から月が昇り、ほぼ同時に西に日が沈むのは、穏やかな春の満月に近い二・三日前後、
この相反する情景対比が画面の中に一同に出会いその瞬間、偶然の「美」が創り出され、
それを蕪村は見事な一句にしまいこんだ・・・(蕪村58歳頃)
そして、摩耶詣での帰り道、山を下り、
「菜の花や摩耶を下れば日のくるゝ」・・・
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現在、摩耶山へはケーブルとロープウェイで山頂まで行けるが、辺りは家だらけで蕪村が見た菜の花畑は無い。でも海は見えないが少し西の、1985年夏季ユニバーシアードで建設された神戸市総合運動公園での「菜の花祭り」まで、蕪村の風景を求めてぶらりと足を伸ばしてみた・・・↓(以下)
神戸総合運動公園/ユニバー記念競技場|神戸市須磨区緑台|Googleマップ
(2017年3月10日撮影)
松尾芭蕉が亡くなったのは1694年(元禄7年)、俳句は大衆化の時代を迎え、
芭蕉没後の22年後に蕪村は生まれ、時代に登場してくる・・・
「与謝 蕪村」(よさ ぶそん) 本姓は谷口信章(のぶあき)
(1716年:享保元年〜1784年:天明3年)
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江戸時代中期の俳人で画家、摂津国東成郡毛馬村(けまむら)、現・大阪市都島区毛馬町に生まれたとしてそれ以上の詳しいことはわからない・・・
20歳の頃、江戸に下り早野巴人(はやの はじん)に師事、芭蕉を慕い行脚生活に憧れ、僧の姿に身を変えて地方を周遊し、絵を宿代の代わりに置いた旅を続け、母親方の丹後で3年ばかりを過ごし、40歳を超えた寛保4年頃(1744年)蕪村と号し、42歳の頃京都に居を構え、この頃より与謝をなのり、45歳頃に結婚し一人娘「くの」を儲ける・・・
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠として京の島原(嶋原)角屋で俳句を教え、俳画に「鳶鴉図」や「夜色楼台図」の絵画に、1771年(明和8年)に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖「十便十宜帖」などを残す・・・
蕪村とは、陶淵明『帰去来の辞』の「田園将蕪」(でんえんまさにあれんとす)から名をとり「荒れ果てた村」からの新たなる旅立ちを意味し、彼の持ち味の写実的で壮大な空間的なスケールの句が何点かあり「庶民感覚」と「おおらかさ」からか、蕪村の研究家であった子規もこの地を訪れ、摩耶山の親子馬の句を詠んでいる・・・
当時の菜の花は・・・
江戸初期の三代将軍・家光の頃、大久保彦左衛門のもとに出入りする架空の江戸っ子の魚屋「一心太助」物語頃、一般向けの「料理物語」が料理書として出来上がり、この国の食文化が新たな黎明期を迎え「江戸の三味」の、そば、すし、天ぷらが生まれる・・・
その天ぷらの揚げ油として、江戸時代は高価なごま油を使用し、その為、天ぷらが庶民の口に入り辛く天ぷらは高級な料理だったが、菜の花の実を絞り灯火用として行灯などに使われた菜種油に、この頃にはそれを精製し白絞油(しらしめゆ)と云われる食用油が出来上がり、その安価な菜種油により天ぷらは庶民に急速に普及し、菜の花の栽培が至る所で行われる・・・
時代も元禄を過ぎてからは・・・
権力者の御用絵師の狩野派から、寺社、公家、などの京都に加え、裕福な町人層が中心の元禄文化を生んだ上方も、江戸時代中期の宝暦~天明(1751年〜1789年)の頃の京都では、円山応挙の写生派や松村呉春の四条派、伊藤 若冲や曾我蕭白の奇想画に対して、文人が余技として描いた「文人画(ぶんじんが)」は「南画(南宗画)」と呼ばれ、池大雅、与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山などを輩出する・・・
そして、幕府当初はひなびた江戸の地も、やがて諸国の人材が集まり、同じ作品を複数生産できる浮世絵のような町人の手に届く芸術が生まれ、江戸後期には、文化の中心は上方(京都・大阪)から江戸へと移っていく・・・
蕪村を慕っていた四条派の松村呉春は池田から京に、献身的に看病するがその年、
68歳の生涯を閉じた。辞世の句は・・・
「白梅に 明くる夜 (よ)ばかりと なりにけり」
(冬も終わり、ほころび始めた白梅の花が闇(やみ)からしらじらと浮かび上がる夜明けを迎えるころとなったなあ〜)
没したのは十二月、蕪村は白梅の初春の明け方を観ていた・・・
Yosa Buson(与謝蕪村)was a Japanese haikai poet.This picture was drawn by Matsumura Goshun(松村呉春)
(以下・参考サイト)
[ブログ内関連記事]
淡路島-Vol.6「あわじ花さじき」 - 春編 -(菜の花)
http://guchini.exblog.jp/23917142/
ぶらり京都-103 [都に降る雪]「夜色楼台図」(やしょくろうだいず)
http://guchini2.exblog.jp/22799043/
ぶらり京都-21[銀閣寺] 方丈襖絵「棕櫚に叭叭鳥図」(しゅろにははちょうず)
http://guchini.exblog.jp/15140112/
与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている・・・
https://ja.wikiquote.org/wiki/与謝蕪村
「田園将蕪」
帰りなんいざ田園将に蕪れなんとすなんぞ帰らざる・・・
少年時代から美しい自然の風景に親しんでいたが、生活のために官吏となり、やがて辞官の決意をする。「既に自ら心を以てからだのしもべと為す/なんぞ惆悵として独り悲しむや」と続く。
美しい田園が待っている。都会の喧燥と意のままにならぬ宮仕えを捨てて、自然のふところに帰ろう。生活のために自分の理想に反して仕官してしまった。過ぎ去ったことを悔やんでもしかたがない。これから人生の正しい進路をとるのだ、という決心をうたった。
【作者】陶淵明
【生没年】365~427
【職業】中国の文人
【出典】『帰去来の辞』
http://www.jlogos.com/d006/5450343.html
与謝蕪村の世界【蕪村句集】
江戸時代中期の俳人・画家、与謝蕪村の作品を、俳句と画像のコラボでまとめました。|春の海ひねもすのたりのたりかな、菜の花や月は東に日は西に、菜の花や鯨もよらず海暮れぬ、五月雨や大河を前に家二軒、夏河を越すうれしさよ手に草履・・・
https://matome.naver.jp/odai/2145984443743523101
[付録]・・・世界の菜の花畑
チエコ
「南モラビアの菜の花畑」
チェコのモラヴィア大草原は、日本ではまず見られない壮大な絶景ポイントなので、チェコに行った際には是非訪れてみてください・・・
http://zkmap.net/moravia/
https://tori-dori.com/trip/2016/
10/21/13476/
5月初旬は一面の菜の花で黄色に染まります。 果てしなく続く菜の花畑、菜の花畑に入って果てしなく歩き花粉が付いて全身黄色くなりましたが菜の花の香りが爽やかでした・・・
http://tabisuke.arukikata.co.jp/
mouth/116847/
Újezd u Černe Hory|ウーイェズト・ウツェルネー・ホリ|Googleマップ
中国・雲南省
「羅平の菜の花畑」
雲南省・「羅平の菜の花畑」と「元陽の棚田」の旅・・・
http://4travel.jp/travelogue/
10319032
羅平の世界一の菜の花畑. 中国全土の油菜の産地であり、ナタネ油が作られる雲南省 の羅平。なんと菜の花畑の総面積では世界一位!ここではまるで菜の花の海の様な黄色一色に染まる風景が楽しめます・・・
羅平の菜の花と石林旅行 - 若草写真館
http://wakakusa3.sakura.ne.jp/
HP8187.htm
雲南省 羅平県の菜の花|羅平(らへい)元陽(げんよう)|Googleマップ
「菜の花や月は東に日は西に」。この俳句が詠まれた日はいつなのか?
http://www.tenki.jp/suppl/romisan/2015/04/03/2481.html
http://news.livedoor.com/article/detail/9965309/
新月・満月の時刻表|2017年度版
http://www.hottatakeshi.com/moon.html
天上寺にある蕪村の句碑・・・
https://matome.naver.jp/odai/2145984443743523101
菜の花と与謝蕪村|摩耶山は俳句の山として知られ、天上寺の宿坊でたびたび句会が催 され、多くの俳句が詠まれています・・・
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/nada/miryoku/nadapdf/img/09.pdf
http://milky.geocities.jp/kyotonosato/hyogo/03/mayamoude15.html
http://ryufuu.cocolog-nifty.com/hibinokaze/2006/12/post_58ad_1.html
忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある仏教寺院。通称「天上寺」。宗派は高野山真言宗。摩耶夫人(釈迦生母)を本尊とする日本唯一の寺である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/とう利天上寺
摩耶山天上寺(まやさんてんじょうじ)
http://www.mayasan-tenjoji.jp
http://www.feel-kobe.jp/sightseeing/spot/?sid=125
摩耶山天上寺|神戸市灘区摩耶山|Googleマップ
馬の灸の張紙出たり摩耶参 - 文化芸能 - 朝日新聞デジタル
馬の灸(きゅう)の張紙出たり摩耶参(まやもうで) 1902(明治35)年 「摩耶」は釈迦の生母。その摩耶夫人を祭るのが兵庫県六甲山の一峰・摩耶山にある天上寺・・・
http://www.asahi.com/culture/shiki/TKY200702080220.html
http://tokyoweb.sakura.ne.jp/noyaki/essay/nanohana/nanohana.html
子規の四季50句
http://www.geocities.jp/shigkoshiba/oboegaki/haiku/shiki021.html
正岡子規「俳人蕪村 」- 青空文庫
蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりし ... 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり・・・
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/47985_41579.html
https://kotobank.jp/word/文人画-128539
https://ja.wikipedia.org/wiki/文人画
https://ja.wikipedia.org/wiki/南画
池大雅との合作で有名な「十便十宜帖」
1771年(明和8年)に池大雅が「 十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」
https://ja.wikipedia.org/wiki/十便十宜
蕪村は39歳から3年ばかりを丹後で過ごした。母親が丹後の人なので、蕪村は与謝を名乗り、半分は丹後人である
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/yosabuson.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/円山応挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/呉春
https://ja.wikipedia.org/wiki/四条派
https://ja.wikipedia.org/wiki/円山・四条派
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤若冲
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本美術史
江戸時代(前期)
http://www.7key.jp/data/j_history/edo1.html
江戸時代(後期)
http://www.7key.jp/data/j_history/edo2.html
神戸総合運動公園「菜の花まつり」
菜の花の春、到来!花の名所、神戸総合運動公園の「コスモスの丘」が約5万本の菜の花で黄色く彩られます。この菜の花は「コスモスの丘市民ボランティア」の皆さんを中心に種まきから苗植えまでを行い、苗植えには市内の園児も参加して元気に育ったものです。
菜の花の見ごろに合わせ、3月18日(土曜)に「コスモスの丘市民ボランティア」との協働により「菜の花まつり」を開催します・・・
神戸総合運動公園|神戸市須磨区緑台|Googleマップ
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平成29年3月18日(土曜) 10時~15時 入場無料
※雨天順延19日(日曜)
神戸総合運動公園
指定管理者 公益財団法人 神戸市公園緑化協会
揚げ油
江戸時代はごま油が高価であり、これが原因で天ぷらが庶民の口に入り辛く天ぷらは高級な料理であった。この後、安価ななたね油の使用により天ぷらが庶民にまで普及が加速した経緯もある・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/天ぷら
天ぷらの話
http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekish40.html
菜の花(なのはな)
アブラナ科の二年草アブラナ(油菜)の花で、三月から四月にかけて鮮やかな黄色い花を咲かせる。花が散ったあとに細長い鞘をつけ、その中に黒い真ん丸の小さな種が実る。これを絞ったのが菜種油で江戸時代から明治には灯火用として行灯などに使われた。精製したものが白絞油(しらしめゆ)で食用油になる。搾り取った油粕は素晴しい肥料になり、今でも園芸愛好家にはおなじみである・・・
http://sogyusha.org/saijiki/01_spring/nanohana.html
菜種油(なたねゆ、なたねあぶら、英: rapeseed oil)とは、主にセイヨウアブラナから採取した植物油脂の一種。食用及び食品加工用に使われる。かつては灯火の燃料としても利用された。2009年の全世界における植物油の生産量は、パーム油・大豆油・菜種油・ひまわり油の順で3番目となっている。日本では菜種油が食用油の全生産量の6割を占めている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/菜種油
料理物語(りょうりものがたり)は、江戸時代の料理書。儀式料理のレシピや作法が中心だった16世紀以前の料理書と大きく異なり、表現は簡潔で文章は格調高く、料理の網羅範囲も広い。江戸時代の代表的な料理書のひとつとされる・・・
物語として伝聞されてきた料理法などをまとめ、寛永20年(1643年)に刊行されたものが底本とされる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/料理物語
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