ぶらり京都-132 [高台寺の寧々] - 花の面影 -
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それは、あたかも咲きて散りゆく花びらのように、
君が代の心と共に、名だたる人々がこの東山の地に埋もれている・・・
高台寺・圓徳院|京都市東山区高台寺|Googleマップ
(2017年4月5日撮影)
秀吉の正室「寧々:ねね」の北政所は、1605年 (慶長10年)「高台寺」を建立し、「高台院」とその下にある塔頭のひとつ「圓徳院」で、秀吉死後おおよそ77歳で没するまでの19年間、このお寺で余生を送り終焉の地となった・・・
↑(遺芳庵/入口の台所坂・ねねが秀吉の墓所へ通った道)→
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その秀吉は1598年(慶長3年3月15日旧暦:4月20日)の最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」の宴。その時の寧々の歌が三首残っている。そして秀吉はその約5か月後に没する・・・
最下層から「さる」と呼ばれた亭主と天下人に登りつめた日々、寧々の歌からは「この人はもう死ぬだろう?」と予測するかのようにも読み取れる・・・
それはまさに・・・
亭主・秀吉の背中を通して見てきたであろう時代の、それも頂点の、時が過ぎ行く幾多の断片に、二人が必死に時を積み上げてきた苦楽の何か?が組み込まれ、おそらく後の側室の淀君には到底測り知り得ない、夫婦で天下へと歩んできた幾歳月の互いの深い呼吸の様のように思える・・・
歌は、まず最初に秀吉から・・・
「あらためて 名を変へてみむ 深雪山(みゆきやま) うづもる花も あらはれにけり」 松(太閤秀吉)
「深雪山(みゆきやま) 帰るさ惜しき 今日の雪 花のおもかげ いつか忘れん」 松(太閤秀吉)
「恋恋て 今日しぞみゆき 花盛り ながめにあかじ 幾年の春」 松(太閤秀吉)
(注・深雪山(みゆきやま)は醍醐寺の山号です・・・)
並び順で、淀殿の歌が続く・・・
「白妙の 袖にまがへて 暮れぬとも 帰るさ知らで ながめあかさむ」淀殿
「相生の 松も桜も 八千代経ん 君がみゆきの 今日をはじめに」 淀殿
「花もまた 君のためにと 咲き出てて 世にならびなき 春に逢ふらし」 淀殿
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「醍醐花見短籍」
『醍醐寺の謎』(祥伝社黄金文庫)元毎日新聞社編集員、現歴史作家・楠戸義昭著
出典→http://yaplog.jp/chilurin0223/archive/3810
そして、次に北の政所おね(寧々)の歌へと続く・・・
「君が代の みゆきの桜 咲きそひて 幾千代かけて ながめあかさむ」
北の政所おね
それは・・・
亭主の天下平定の穏やかな日々を眺めながら、織田信長の本能寺の変の1582年(天正10年)から、9年後の1591年(天正19年)に北条氏を下し、秀吉は太閤関白として天下に登りつめ、その後は・・・
1583年(天正11年)大坂城築城開始
1585年(天正13年)関白に就任
1590年(天正18年)小田原征伐
1592年(文禄元年)朝鮮征伐
1593年(文禄2年)秀頼が誕生、本拠を伏見城
に移す
1598年(慶長3年)「醍醐の花見の宴」後、
伏見城で薨去
1605年(慶長10年)寧々、高台寺を建立し、
門前に「圓徳院」の屋敷を構える...
北の政所おね
しかし・・・
1598年の秀吉死後、時代は大きく動き出し、
2年後の・・・
1600年(慶長5年)石田三成らの関ヶ原の戦い
1603年(慶長8年)徳川家康は伏見城で、
征夷大将軍に就任
1614年(慶長19年)方広寺鐘銘事件
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣と翌年、
1615年(慶長20年)大坂夏の陣で、
豊臣家は滅亡する
そして豊国神社や豊国廟は秀吉死後の翌年、慶長3年(1598年)に建立されるが、
1615年(慶長20年/元和元年)に豊臣家が
滅亡すると、家康に破壊される
1615年(慶長20年/元和元年)に天皇及び
公家への禁中並公家諸法度の制定...
秀吉死後、寧々が家康をどう観ていたかは小説的には、大体がお互い良い関係に書かれてはいるが、
でも、寧々が「猿」と歩み、苦労の果てに創り上げた天下の思い出の建物をことごとく無くさせた
「狸」のような家康を、寧々が「あの、腹黒狸め」と悲しさと悔しさのなかで、
はかない時の流れを観ていたかも知れない・・・
その、腹黒狸も豊臣家を滅ぼした翌年の1616年(元和2年)、駿府城で73年の生涯を閉じている。
そして1624年(寛永元年)、家康の死後から8年後、寧々も77歳の生涯を閉じた・・・
辞世の句は無いが、辞世のような醍醐花見之和歌の最後の一首は・・・
「ともなひて 眺めにあかじ 深雪山(みゆきやま) かへるさ惜しき 花の面影」
北の政所おね
それはまるで、
秀吉と歩み花のように咲き誇った時代の面影を思い観ているかのように・・・
(以下・参考サイト)
「高台寺」(こうだいじ)
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豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある...
豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高台寺
高台寺| オフィシャルサイト
http://www.kodaiji.com/index.html
高台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高台院
https://kotobank.jp/word/高台院-62663
<付録>
「圓徳院」(えんとくいん)・・・
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派・高台寺の塔頭のひとつ。本尊は釈迦如来。開山は三江紹益。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)が晩年の19年間に自身の本拠地としたことで知られるほか、一説にはその終焉の地ともいう。安置されている三面大黒天は秀吉の念持仏と伝わるもの。
小堀遠州が整えた北庭は、旧円徳院庭園として国の名勝に指定、長谷川等伯の筆による襖32面の墨画は国の重要文化財に指定されている・・・
圓徳院 - 高台寺
http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml
高台寺 圓徳院 | 京都春秋
http://kyotoshunju.com/?temple=kodaiji-entokuin
http://www.京都通.jp/History/HumanNene.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ねね
https://ja.wikipedia.org/wiki/醍醐の花見
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/醍醐寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/大坂城
https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/京の大仏
京都 高台寺》の魅力と見どころ|旅行・お出かけ - MAR-KER
https://travel.mar-ker.com/高台寺
http://kazenotabi-kyoto.com/encyclopedia-jinjabukkaku/koudaiji.html
「醍醐花見短籍」
『醍醐寺の謎』(祥伝社黄金文庫)元毎日新聞社編集員、現歴史作家楠戸義昭著
http://yaplog.jp/chilurin0223/archive/3810
醍醐の花見(その2)
http://yaplog.jp/chilurin0223/archive/3809
醍醐の花見(その3)
http://yaplog.jp/chilurin0223/archive/3808
観光ガイド|京都桜開花情報2017
http://souda-kyoto.jp/travel/sakura/
京都桜情報
http://www.the-kyoto.jp/sakura/
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