ジョアン・ミロの「カタルーニャ賛歌」
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1911年に18歳の時うつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチ (ムン=ロッチ・ダル・カム/カタルーニャ語: Mont-roig del Camp) という村の父親の屋敷マス・ミロー(Mas Miró)に滞在する・・・
このモンロッチの村の環境がミロの感性に大きな影響を与え、この頃から本格的に画家を目ざすようになり、翌1912年バルセロナの美術学校に入学し、1919年にはパリに出て、モンロッチとパリを往復しつつ制作された「農場:The Farm (1921-1922年作)」と名付けられた「田舎での私の人生全体の要約」と彼が述べる作品がパリのモンパルナスの画廊に飾られる・・・(ミロ26歳)
カタルーニャ語: Mont-roig del Camp|カタルーニャ州モンロッチ|ミロ・センター|ミロ通り|Google マップ
http://www.centremiro.com/planes/montroig.php
アーネスト・ヘミングウェイが1921年にパリを訪れた時、街は世界一の国際都市と化し、モンパルナスを中心に劇場やミュージックホールが多数ひしめき、毎晩、華やかな祝祭と酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返される「レ・ザネ・フォル」(狂乱の時代:Les Années Folles)と呼ばれる時代を迎えていた・・・
当時のヘミングウェイは、1918年赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に赴き重傷を負い、戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」(Toronto Star) 紙のフリー記者をし、特派員としてパリに渡り小説を書き始め、1926年に発表された初の長編小説「日はまた昇る:The Sun Also Rises」は、簡潔な文体、生き生きとした会話など、特に母国のアメリカ合衆国の若者のロスト・ジェネレーションの心を捉えセンセーションを巻き起こし時代に登場する・・・
そのヘミングウェイが、ジョアン・ミロのモンパルナスの画廊に飾ってあった「農場:"The Farm"」 の絵をなけなしのお金をはたいて購入し、彼の最初の妻エリザベス・ハドリー・リチャードソンの誕生日にプレゼントする。現在、絵はワシントンDCのナショナル・ギャラリー・オブ・アート(National Gallery of Art)に1987年にMary Hemingwayによって寄贈されている・・・(上と下の写真)
ヘミングウェイはこの絵についてこう述べている・・・
「絵には、そこに行ってスペインを感じ、離れていても感じるスペインの全てがある・・・」(直訳)
(注、スペインとはカタルーニャのことだと云われている・・・)
“It has in it all that you feel about Spain when you are there and all that you feel when you are away and
cannot go there. No one else has been able to paint these two very opposing things.”
「農場」 "The Farm" 1921年〜1922年|油彩・キャンバス|132 x 147cm ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵 ワシントンDC|National Gallery of Art 1987年、Mary Hemingwayによって寄贈 ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
ミロのパリでの生活は飲まず食わずの悲惨なもので、しばしば飢餓状態に陥り、その幻覚は仮面をつけた貧乏な「道化役者:アルルカン (仏: Arlequin)」のように、何か別の存在に憑依(ひょうい)されて肉体を支配され、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう、シュルレアリズムで云うオートマティスム (Automatism:自動書記) 現象の、日本で云う所の「狐憑き」や「神がかり」から描かれたと言われている超現実的な独特の美の世界「アルルカンの謝肉祭」(Harlequin's Carnival)を制作し、ジョアン・ミロは時代に登場する・・・
"Harlequin's Carnival" 1924〜1925年|Oil on canvas|66 cm × 90.5 cm オルブライト=ノックス美術館蔵 |Albright–Knox Art Gallery, Buffalo, New York ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
そして、ミロが自ら「カタルーニャ人である」と公言し、カタラン語で「ジョアン」と呼び続けるカタルーニャは、もともとカタルーニャ人としての強い民族意識を有し、独自の歴史・伝統・習慣・言語(カタラン語)を持ち、中世にアラゴン=カタルーニャ連合王国として地中海の覇権を握るほどの力を持っていた。がしかし、彼が愛するカタルーニャには深い悲しい過去が横たわっている・・・
1924年に描かれた連作 " Head of a Catalan Peasant/カタルーニャ語: Cap de pagès Català" 1924年| Oil and Crayon on Canvass|92.0cm x 73.2cm ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵 |Washington D. C., National Gallery of Art. ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
時に世界に君臨したスペイン帝国も斜陽化し続けて、第一次世界大戦後はプリモ=デ=リベラ将軍 (Miguel Primo de Rivera)の 独裁統治が1923年〜1930年まで続き、カタルーニャ地方やバスク地方の自治・独立を求める運動は弾圧さていた・・・
しかし、1930年にプリモ・デ・リベラ将軍が死去すると、軍政とそれを支えた国王への不満により翌1931年、国王アルフォンソ13世が国外脱出し君主制は崩壊する。しかしその後、左派と右派との対立が激しく、政治は混迷を続け1936年に人民戦線政府とフランコの指揮する軍部の間でスペイン内戦が勃発し、世界中がファシズム化の中で、イギリス・フランスは不干渉政策をとったが、ドイツ・イタリアはフランコの反乱軍を支持・・・
↑「耕作地」(1923年)/「カタルーニャの風景」(1923年)↓
ソ連と国際義勇軍が人民戦線政府を支援して国際的な戦争の様相を呈し、まさに第二次世界大戦に先行する戦争へと発展する・・・
内戦はフランコが勝利し、フランコ独裁体制は第二次世界大戦後も30年間続き、フランコ死後ボルボーン王朝が国民からの圧倒的な支持を受けて復活し、1977年に総選挙が実施しされ1978年に議会が新憲法を承認、今日のような民主主義体制へ移行する・・・
このスペイン内戦では・・・
ヘミングウェイが1930年代に人民戦線政府側の反ファシスト軍としてスペイン内戦に参加し、その時の長編小説が「誰がために鐘は鳴る」(For Whom the Bell Tolls) で、1940年に発表されている・・・
1924年に描かれた連作、 ミロは、リベラ政権によってカタルーニャ語が禁じられたことに反発してこの連作の作品を制作した・・・ " Head of a Catalan Peasant/カタルーニャ語: Cap de pagès Català" 1925年|Oil paint on canvas|92.0cm x 73.2cm テート・ギャラリー蔵 |Tate Gallery:Tate Britain, London ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
そのスペイン内戦の最中・・・
1937年パリ万国博覧会のスペイン館に、ピカソはフランコのバスク攻撃に抗議し「ゲルニカ」を、ミロもカタルーニャ攻撃に対し「刈り入れ人」の絵画作品を展示する・・・(ミロ44歳)
それは・・・
1937年春に北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、バスクは完全に反乱軍に占領され、4月26日にバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52の24機による無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)で市民に多数の死傷者が出た・・・
そして、1938年12月フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領を辞任し人民戦線政府はフランスに亡命する・・・
アーネスト・ヘミングウェイや、後にフランス文相となったアンドレ・マルローや、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパなどが参加し反ファシズム運動の国際旅団が組織されるが助ける事は叶わないまま、同年4月1日にフランコによって内戦の終結と勝利が宣言された・・・
フランコ側は、人民戦線派の約5万人に死刑判決を下し、自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じ、カタルーニャからはフランスに逃れた亡命者が数多く出た。その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷を極め大戦後も人民戦線派への弾圧は続いた・・・
↑(右上はピカソの「ゲルニカ」ミロの制作中の「刈り入れ人」と、万国博のあと輸送中に紛失し、その後に復元された作品...)
(ピカソとミロ1937年7月12日にスペインパビリオンの初日)
自らを「カタルーニャ人である」と公言し、カタラン語で「ジョアン」と呼び続け、
1937年パリ万国でミロが描いた「刈り入れ人」への思いは・・・
カタルーニャの人々が彼らの国歌だと非公式に歌う「収穫人たち」(カタルーニャ語:Els Segzdors)で、
カタルーニャ自治州議会は公式に国歌に制定、
ミロが描いた「刈り入れ人」は、正にカタルーニャ人の魂そのもだった・・・
(反抗カタロニア農民) "The Reaper/El Payés catalán en rebeldia" 1937年パリ万博のためにスペイン館でピカソの「ゲルニカ」と共に描かれた壁画で、 スペイン内戦での無差別大量虐殺のフランコ軍への抗議・・・ ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
ミロはスペイン内戦が始まると家族を連れパリへと避難するが、1939年に第二次世界大戦が勃発し1940年にヒトラー率いるドイツ軍にパリは占領される。ミロはフランスの東海岸にある都市ノルマンディーのヴァレンジュヴィルへ逃れるも再びナチス・ドイツの侵攻で1940年スペインに退避し、カタルーニャ地方から地中海西部のバレアレス海に浮かぶマヨルカ島(Mallorca)のパルマに移り住み、以後、生涯パルマ・デ・マヨルカ(Palma de Mallorca)を本拠地として活動し、1970年には日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画「無垢(むく)の笑い」を制作するため来日し、1983年パルマで老衰のため90年の生涯を閉じた・・・
人とは、社会とは、国とは何か?・・・そして、そこに息づく命と、生きる歓びとは?
ミロは、カタルーニャの大地の風や星や雲から生まれ出るオートマティスム (Automatism) から、
造形詩人のように、自然界の中にその答えを見出していく・・・
"Innocent Laughter"(Wall of the Osaka Exhibition) 窯は益子の浜田庄司(1894~1978)の指導を受けて焼かれ、 1970年大阪万博のガス・パビリオンに展示され、陶板640枚で構成されている・・・ On the occasion of the 1970 Universal Exhibition in Osaka, one of the most important gas companies in Japan commissioned Miró and Artigas to create this Mural. 国立国際美術館蔵|1970年|Earthenware|500 x 1200 cm|The National Museum of Art, Osaka ジュアン・ ミロー・イ・ファラー:Joan Miró i Ferrà (1893年〜1983年) |
日本万国博覧会の陶板の絵には無数の目が描かれ、
それはあたかも、物言わぬ生き物たちの目が、生きる記号の様に見え、
我々人間のなすことの良し悪しを見ているかのような無言の言葉の様に、
それは彼の云う「記号こそ、魔術的な感覚を引き起こす」生あるものの命の言葉かもしれない・・・
(以下・参考サイト)
ジョアン・ミロ(カタルーニャ語: Joan Miró i Ferrà [ʒuˈan miˈɾo i fəˈra]、ジュアン・ ミロー・イ・ファラー, 1893年4月20日 - 1983年12月25日)は、20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方の出身。かつてスペインではカスティーリャ語以外の言語は公的には ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョアン・ミロ
シュルレアリスム(仏: surréalisme、英: surrealism)は、フランスの詩人アンドレ・ ブルトンが提唱した思想活動。一般的には芸術の形態、主張の一つとして理解されている。日本語で超現実主義と訳されている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/シュルレアリスム
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドレ・ブルトン
ジョアン・ミロ / Joan Miró|抽象絵画と具象絵画のあいだ|山田視覚芸術研究室
https://www.ggccaatt.net/2014/03/14/ジョアン-ミロ-絵画の暗殺/
http://art-lover.me/2016/04/22/ジョアン・ミロ/
http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1028794732.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/kaiga/055.html
http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1028862648.html
https://matome.naver.jp/odai/2138534007197491801
https://matome.naver.jp/odai/2147872590219498701
シュルレアリストによる自動筆記
https://ja.wikipedia.org/wiki/オートマティスム
https://ja.wikipedia.org/wiki/憑依
https://ja.wikipedia.org/wiki/カタルーニャの農夫の頭
http://www.tate.org.uk/art/artworks/miro-head-of-a-catalan-peasant-t07521
Tête de paysan catalan (Head of a Catalan Peasant)
http://catalogue.successiomiro.com/catalogues/paintings-i/tete-de-paysan-catalan-1924-361.html
https://www.nga.gov/content/ngaweb/features/slideshows/collectors-committee-gifts.html#slide_12
http://collection.nmwa.go.jp/P.1965-0011.html
http://www.sounds-eightree.com/windmusic2.php?eid=00067
http://tdgartlife.exblog.jp/9244158/
http://blog.archiphoto.info/?eid=1170777
http://sceneblog.hamazo.tv/e4963280.html
https://plaza.rakuten.co.jp/hoshinokirari/diary/20161017/
http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=50019
https://ja.wikipedia.org/wiki/ムンロッチ・ダル・カム
カタルーニャ語: Mont-roig del Camp
http://www.centremiro.com/planes/montroig.php
https://ja.wikipedia.org/wiki/カタルーニャ独立運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/カタルーニャ人
https://ja.wikipedia.org/wiki/収穫人戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/収穫人たち
http://collection.nmwa.go.jp/P.1965-0011.html
http://catalogo.artium.org/dossieres/4/guernica-de-picasso-historia-memoria-e-interpretaciones/el-pabellon-espanol-de-la-expos-6
https://ja.wikipedia.org/wiki/スペイン内戦
http://www.enforex.com/japanese/culture/art-joan-miro.html
https://earth-quote.org/archives/1501
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミゲル・プリモ・デ・リベラ
スペイン内戦
http://www.y-history.net/appendix/wh1504-112.html
https://matome.naver.jp/odai/2140221780070614801
https://matome.naver.jp/odai/2140221780070614801?page=2
http://www.centremiro.com/planes/montroig.php
https://ja.wikipedia.org/wiki/スペイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/カタルーニャ州
https://ja.wikipedia.org/wiki/日はまた昇る
https://ja.wikipedia.org/wiki/武器よさらば
https://ja.wikipedia.org/wiki/誰がために鐘は鳴る
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