蓮月の曇らぬ「月」・・・
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養父の大田垣光古 (てるひさ) は因幡国出身で、室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫であり、誠 (のぶ) を引き取った当時は知恩院勤仕として知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分だった・・・
知恩院|京都市東山区知恩院|Googleマップ
花街・三本木の生母は、誠 (のぶ) を出産した後に丹波亀山藩の藩士の妻となり、誠 (のぶ) は7歳の寛政10年 (1798年) 頃から実母の丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、17歳になる頃まで10年ほど亀山で暮らした・・・
養父の大田垣光古には5人の実子がいたが、そのうち4人は誠 (のぶ) を養女にする前に亡くなり、唯一成人まで成長した末子の仙之助も、誠が亀山に奉公していた時に病死する・・・
その為、大田垣は望古と云う養子を迎え、文化4年 (1807年) 頃、誠 (のぶ) を呼び戻し養子の望古と結婚させる。二人の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、文化12年 (1815年) に夫の望古も亡くなり、誠 (のぶ) は25歳にして未亡人となる・・・
4年後の文政2年 (1819年) 、養父の光古の大田垣家はお家存続の為、彦根藩の石川光定の次男の古肥を養子に迎え、未亡人だった誠 (のぶ) と再婚させる。二人の間に一女が生まれたが、文政6年 (1823年) に夫の古肥が死去し、誠 (のぶ) は世をはかなみ仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪し「蓮月」尼となった・・・蓮月32歳
その後、大田垣家は再び彦根藩より古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承させてはいたが、2年後には誠 (のぶ) と古肥との間の女児が亡くなり、その2年後の文政10年 (1827年) には養父西心が亡くなり、連月は生まれ育った知恩院を去り、天涯孤独の旅が始まる・・・蓮月36歳
京の街で絶世の美人として、いや〜相当な美人であったらしく、しかも書や和歌に通じ、現存する930数首の歌を詠み、江戸末期の京都「三大女流歌人」の一人でもあり、その才を生かし、当初は和歌や書を教えながら生計を立てていたらしい・・・
がしかし、美人で才女が故に言い寄る男は多く、絶えず良からぬ噂が立ち「屋越し蓮月」と呼ばれるほど男から隠れるように引越しを繰り返す・・・
しかもそれ以上に眉毛を引き抜き、歯も無理やりひっこ抜き、顔かたちを醜い女に変身させながら岡崎・粟田・大原・北白川などを転々とし、ついに飲まず食わずの生活を送りはじめる・・・
そんな時、それを見かねた老婆の助言で、急須・茶碗などの焼き物を造りはじめ、そこに自作の和歌を書きつけた陶器は「蓮月焼」(れんげつやき)と呼ばれ市中で人気となっていく・・・
「こひせじの それにはあらで 涼しきは 神のうけひく 鴨の川風」
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「戀ひせじと御手洗河にせし身そぎ 神は受けずも なりにけるかな」
(伊勢物語 六十五段 忍ぶることぞ)
(もう恋をしないと決心して神社近くの河で清めて行ったみそぎだが、神は私の願いを受け入れてはくださらなかった・・・)
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その頃、時代は大きく動き出していた・・・
蓮月の天涯孤独の旅が始まった頃、国内外共に雲行きが怪しくなり始め、文政8年 (1825年) には中国とオランダ船以外は武力で追い払う異国船打払令が 、5年後の文政13年 (1831年) 葛飾北斎の「富嶽三十六景」、その2年後の天保3年 (1833年) に歌川広重の「東海道五十三次」が、同年には天保の大飢饉が、4年後の天保8年 (1837年) に大坂で大塩平八郎の乱・・・蓮月46歳
ろくろでは無く手びねりで作った器に、自作の和歌を自ら釘で彫り刻み、となり村の粟田焼きの窯元に持ち込んで焼いてもらう。土ひねりと歌と書で出来上がった「蓮月焼」は、土産物に買って帰ると云うほど街中で人気となり、後には窯があった吉田神楽岡近くの岡崎村には当時の文化人が集い、まがい物の贋作が多数出回る・・・
売れに売れた蓮月焼の売り上げを飢饉の際には喜捨し、その資財を投じて生まれ育った三本木の鴨川にかかる丸太町橋を架ける。そこには、我を捨て「自」も無ければ「他」も存在しない世界へ・・・
蓮月は、私心を捨て去り禅的な自体をより正確に認識する「無私 (むし)」の境地に到達する・・・
しかし、時代は幕末の様相を呈し、嘉永6年 (1853年) 7月4隻の巨大な黒船が浦賀沖に出現・・・
「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった4杯で夜も眠れず」と云う狂歌の後に、
翌年の嘉永7年 (1854年) 3月、ペリー率いるアメリカ艦隊7隻の軍艦が伊豆下田沖に現れる・・・
世はまさに尊王と攘夷、開国と佐幕、京の街もにわかに血の匂いに染まり・・・
慶応3年 (1867年) 京坂一帯に「ええじゃないか〜ええじゃないか〜・・・」と狂乱の踊りが起こり、徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は終焉し時代は明治へと動く、官軍が幕府群を破った鳥羽伏見の戦い、京の市中に官軍の太鼓と笛の音が流れ、時代は大きく変わり始める・・・蓮月76歳
そして、江戸に向かう官軍の西郷隆盛に、三条大橋の群衆の中から蓮月が和歌の一首を差し出し、
それが西郷の江戸無血開城を導いたと言われている・・・
「あだみかた 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」
色紙「秋草図」 書:太田垣蓮月・ 画:富岡鉄斎|清荒神清澄寺|鉄斎美術館蔵 掛け軸 紙本淡彩|金襴緞子裂 神光院徳田光圓箱|本紙寸法18.2×21.3cm 「ほとときす 鳴て過にしかたをかのもりの 梢そなかめ れける」 |
家財道具を持たず来客は拒まず飯を振る舞い、欲しと言えばくれてやる「無私の人」として
晩年は京都の北、西賀茂村の神光院 (じんこういん) の現在の「蓮月庵」に移り住む・・・
蓮月庵・神光院|京都市北区西賀茂神光院町|Googleマップ
安政2年 (1855年) 18歳頃に耳が少し不自由で引きこもりがちだった、
後の富岡鉄斎を侍童として育て、人格形成に大きな影響を与えていく・・・
明治8年、西賀茂村の住人に見送られながら930数首の歌を残し、85歳で没した。
最晩年の一首が残っている・・・
「願わくは のちの蓮 (はちす) の花の上に くもらぬ月をみるよしもがな」
(願わくば、極楽往生したのち、蓮 (はちす) の花の上で、曇ることのない月の光を見る手立てがあったなら・・・)
(蓮月 辞世の句)
大田垣 蓮月 (おおたがき れんげつ)/寛政3年 (1791年) 〜明治8年 (1875年)
(以下・参考サイト)
←京都の時代祭に、太田垣連月は「江戸時代婦人列」の一員として、毎年登場する・・・
大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ)
寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。京都の生まれ。実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女となった...
養父の死を期に、連月は生まれ育った知恩院を去って...「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られた...
六人部是香・上田秋成・香川景樹に学び、小沢蘆庵にも私淑した。歌友に村上忠順・橘曙覧・野村望東尼・高畠式部・上田ちか子・桜木太夫などがいる。歌集に「蓮月高畠式部二女和歌集」「海人の刈藻」...
https://ja.wikipedia.org/wiki/大田垣蓮月
無私(むし)とは、私心・我利・我欲・エゴなどの「自分のため」といった感情がない状態・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/無私
伊勢物語 六十五段 忍ぶることぞ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1871_amanokarumo.htm
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1124411791
「あだみかた(仇味方)勝つも負くるも哀なり おなじ御国の人とおもへば」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO90485810T10C15A8TY5000?channel=DF260120166500&style=1
願はくは のちの蓮はちすの 花のうへに くもらぬ月を 見るよしもがな
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/rengetu.html
知恩院 蓮 深い緑の中に咲くハスの花
http://kyotomoyou.jp/chionin-20170716-2
蓮月式部二女和歌集::近代書誌・近代画像データベース - 国文学研究資料館
http://school.nijl.ac.jp/kindai/RTHY/RTHY-00109.html#1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874690
海人の刈藻
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1871_amanokarumo.htm
Page 1 はじめに 大田垣蓮月|930数首の歌
http://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/kob-rs_005_005._?key=PWZVMI
蓮月焼|服部之総
http://www.aozora.gr.jp/cards/001263/files/50372_39818.html
http://www.news-postseven.com/archives/20130115_166046.html
春 8首 夏 4首 秋 7首 冬 4首 恋 3首 雑 10首 計36首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/rengetu.html
<チョットより道> 西賀茂村「神光院」の茶所の「蓮月庵」へ・・・
2018年 12月 03日のブログより・・・ぶらり京都-159 [常照寺の吉野太夫]
https://guchini2.exblog.jp/27248456/
(鷹ヶ峰から東の鴨川よりの蓮月庵まで足をのばしてみる・・・)
神光院「蓮月庵」
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絶世の美人と言われた蓮月はひっきりなしに言い寄ってくる男に心身ともに疲れ「いっそのこと老婆になりたい」と自ら歯を抜き血まみれになって容貌を変えた。
その後岡崎に移り住んだ蓮月は「蓮月焼」を売って生計を立てるようになる・・・
出家後の晩年は、若き日の富岡鉄斎を侍童として、神光院の「蓮月庵」で暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた・・・
京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年、85歳で没し、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしている・・・
神光院・蓮月庵|京都市北区西賀茂神光院町|Googleマップ
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<ブログ内関連記事>
ぶらり京都-159 [常照寺の吉野太夫]
https://guchini2.exblog.jp/27248456/
大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/大田垣蓮月
https://ja.wikipedia.org/wiki/蓮月焼
蓮月庵(京都市北区)
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080226.html
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/rengetuni.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄斎美術館
http://artmatome.com/富岡鉄斎%E3%80%80【略歴と作品一覧】/
長良川画廊|Web書画ミュージアム
http://www.nagaragawagarou.com/sakuhin/rengetsu-c113.html
丸太町橋
http://www.kyotofukoh.jp/report79.html
http://www.djq.jp/bridge_liblary/river_kamo/kyoto_bridge_kamo018_marutamachi.php
鴨川に架かる橋からの鴨川
http://www5.city.kyoto.jp/tokeimap/cyobo_pdf/pdf/plot_36_a3t.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/丸太町通
京都市の橋の変遷 ① 明治時代の橋
http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/cmsfiles/contents/0000149/149842/hashishirube07.pdf
https://www.google.co.jp/maps/place/頼山陽書斎山紫水明處/
京都、丸太町橋の周辺には歴史がいっぱい!ブログ60回記念
http://blog.goo.ne.jp/rihaku-shoufuu/e/0022865f7704ef15f5f36e5953728cf9
悲運の歌人 屋越の蓮月こと
http://blog.eotona.com/?p=3170
真葛庵(まくずあん)|『大田垣蓮月』杉本秀太郎・中公文庫
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/makuzu.html
http://yamatokensetsu.seesaa.net/article/168182775.html
太田垣蓮月の歌「世の中に 夏は流れて いでつらん ひとり涼しき 山の下水」
http://wind.ap.teacup.com/idobata/622.html
太田垣蓮月(一)〜(七)
http://www.tendai-jimon.jp/serialization/3/index.html
http://mosume.cocolog-nifty.com/blog/cat59257796/index.html
https://ameblo.jp/byokiwa-genkino-ekisu/entry-11884426115.html
蓮月庵(京都市北区)
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080226.html
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/rengetuni.html
冨岡鉄斎展 虎屋
http://www.zuzu.bz/ownerblog/2010/05/post_551.html
太田垣蓮月の鉢
https://blogs.yahoo.co.jp/kohionagasu45/32888737.html
『蓮月茶や』(京都市東山区神宮道知恩院北入る)』にて〕
https://blogs.yahoo.co.jp/mt_matterhorn4478/40597238.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/富岡鉄斎
兵庫県立美術館「鉄斎」展記念講演|「鉄斎と山水」
http://1000ya.isis.ne.jp/1607.html
江戸時代年表
http://www.sky.sannet.ne.jp/gongtian_ming/nenpyou1.htm
江戸時代年表
http://www.papy.in/rekishi/nihon/edo_zidai.html
明治時代年表
http://www.papy.in/rekishi/nihon/meizi_zidai.html
参考文献
杉本秀太郎『太田垣蓮月』(初版淡交社、桐葉書房、新版2004年)
磯田道史「新代表的日本人 大田垣蓮月」『文藝春秋』2010年6月号~12月号)
磯田道史『無私の日本人』2012 文藝春秋 ISBN 978-4-16-375720-9
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