アルビ|Albi, France|Googleマップ
家はフランスの伯爵家、8歳の時、弟リシャールが4歳で亡くなり両親は不仲となり、母親と共にパリ8区のマドレーヌ寺院近くに住み絵を習い始める。しかし、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折し脚の発育が停止、胴体の発育は正常でも、脚の大きさだけは子供のままで、成人した時の身長は152cm。現代医学では骨粗鬆症や骨形成不全症といった遺伝子疾患と云われ、アルビに戻ったトゥールーズ=ロートレックは絵を描くなど、孤独な青春時代を送っている・・・
1882年、17歳のロートレックはパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年までモンマルトル:Montmartrで活動するようになった。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている・・・
↓(出典"Moulin Rouge")→http://www.moulinrouge.fr/histoire/grandes-periodes
1889年モンマルトルのクリシー通りに面した現在のブランシュ(Blanche)駅前に「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」が開店し、1891年に看板ダンサーの「ムーラン・ルージュのラ・グーリュ」のポスター(下の絵)が街角に貼られ、道行く人々の驚愕の中でトゥールーズ=ロートレックは時代に登場する・・・
ロートレック27歳
"Moulin Rouge - La Goulue" サン・ラザール近くの劇場「カジノ・ド・パリ(Casino de Paris)」に対抗し、 鳴物入りの宣伝で「ラ・グーリュ/La Goulue(大食らい)」を新しく雇い入れ、 画面前の影の「骨なしヴァランタン/Valentin le Desosse」を配した、 ロートレックによる初のポスターが製作された・・・ 1891年|191 × 117 cm|Lithograph トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
これは・・・
天明元年(1781年)の江戸時代も終わる頃、江戸は遊郭と呼ばれた花街の「吉原」に歌麿が登場し、化政文化時代 (1804年-1830年)と呼ばれる、浮世絵や滑稽本に歌舞伎、川柳など、闊達な町人文化が華開いた・・・
当時、ロートレックがモンマルトルの歓楽街に入り浸り、まるで歌麿や写楽の様に、人物画を中心に人気役者の時代風俗を、瓦版ならぬポスターを通し大衆と共に時代を謳歌する姿は、おおよそ100年余前の江戸の吉原で起こったこの事と見事に酷似する・・・
その技の違いは、浮世絵の版木は木版画、対してロートレックは石のリトグラフ。そのボカシは木版画ではできない刷毛やブラシと金網で作る細かい点々の集合で生まれるブラッシング技法のグラデーション・・・
そして、必死に今日の今、
を生きる姿に「美」は存在する・・・
それは、おおよそ100年前に江戸の浮世絵が大衆の自由で闊達な生命力から「美」を取り出した姿と共通する。しかも浮世絵に比べ、動的なスピード感のある動きを画面に閉じ込めるには非常な技がいる。それも生き生きと臨場感を漂わせなければ意味がない・・・
←「エグランティーヌ嬢一座」
"La Troupe de Mademoiselle Églantine" 1896年
82 Boulevard de Clichy, 75018 Paris,|パリメトロ2号線 ブランシュ駅下車、徒歩1分|Googleマップ
"Bal au Moulin-Rouge" ラ・グーリュと骨なしヴァランタンが中央で踊っている・・・ 1890年|100.5 × 150 cm|油彩・キャンバス:huile sur toile フィラデルフィア美術館 アメリカ ペンシルベニア|Philadelphie, Philadelphia Museum of Art. トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
1856年(安政3年)パリの版画家ブラックモンが、版元ドラートル(A.Delâtre)のところで陶器の包装詰物に使われて偶然送られてきていた「北斎漫画」を発見し、そのデッサンのすばらしさに驚嘆し、これを友人の画家マネ、ドガ、ホイッスラーや批評家シャンフルーリ、ビュルティ(P.Burty)などに伝えたところから、やがて印象派を形成する一群の若い画家たちの間で日本美術に対する異常な関心が発生する(wikiより)・・・
それはジャポニスム (仏: Japonisme)と呼ばれるブームを巻き起こし、約30年間ほど続き、ロートレックはその真っ只中にいた・・・
←(ロートレックのサイン)
そして日本通のロートレックのサインは、日本の印(落款)に似ている。そして浮世絵の絵師ように描く輪郭線は日本画のように書道に近い毛筆のように強弱のある太いや、細いの柔らかな線で描かれている・・・
↑ 1889年頃パリ国立図書館蔵
日本の装束に身を包むロートレックは、日本の品々を買いあさり、根付、日本刀、鎧、扇子、掛け軸、毛筆、墨、硯・・・
そんなロートレックから生まれ出たものは、江戸とParisが見事に溶け合った姿かも知れない・・・
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←1889年頃、上の作品
「ムーラン・ルージュの舞踏会」制作風景
"Divan Japonais" パリで流行していたカフェ・コンセール(音楽喫茶)のためのポスター。 中央の黒いドレスの女性が人気の踊り子ジャヌ・アヴリル、 その後ろの片眼鏡の男性が音楽評論家のエドゥワール・デュジャルダンと。 オーケストラの奥にいる顔の見えない黒い手袋の女性が歌手のイヴェット・ギルベール・・・ 1892年|79.0×60.0cm|Lithograph トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
江戸も歌麿の他に写楽や豊国、北斎や広重などの作家が登場し、
人物画の作品も、遊女、花魁、さらに茶屋の娘、時には春画へと題材を求め・・・
"Mademoiselle Marcelle Lender" 1895年|石版画 トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
同じような流れは、当時パリにも、
以下のジュール・シェレ/テオフィル・スタンラン/ウジェーヌ・グラッセなどの
ポスター作家たちが登場し・・・
"Jane Avril" ジャヌ・アヴリルは1890年、22歳でムーラン・ルージュにデビューし一世を風靡する・・・ これはジャルダン・ド・パリにジャヌ・アヴリルがデビューした時のポスター・・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンヌ・アヴリル 1893年|130 x 90 cm|Lithograph トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
1880年代のヨーロッパ、特にパリはベル・エポック(La Belle Époqu:良き時代)と云われた時代・・・
絵画以外でも、自然科学の多くの発見が続き、汽車やに汽船、自動車や動力飛行機の登場、技術革新は鉄鋼・化学工業、ガスに電気、ファッションなどの衣食住にカメラ、映画、電話など生活の根底を変えるほど多様な発展を遂げる・・・
パリで芸術的なサロンを主催したポーランド出身のピアニストで富豪の「ミシア・セール (Misia Sert) 」は、当時「パリの女王」と呼ばれ多くの芸術家を支援し、プルースト、モネ、ルノワール、ボナール、シニャック、ドビュッシー、マラルメ、ココ・シャネルなどのような文化的なサロンをサン・フィレンツェ通り(Rue Saint-Florentin)のナタンソン家で文芸活動が行われた・・・
彼女はルノアールやボナールの作品のモデルとなりロートレックも頻繁に訪れ、彼女の絵や、彼女の文芸誌の「ラ・レヴューブランシュ(La revue blanche)」の表紙にも描がいている・・・
"Aristide Bruant dans son cabaret" 1885年、ブリュアンが開いた酒場に、ロートレックが訪れ、 場末の魂を歌って喝采を一身に集めるブリュアンに、たちまち魅了される・・・ その時のポスターが、ロートレック作・赤いマフラーの「アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン」・・・ 1892年|141 x 98 cm|Lithograph トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
退廃を身にまとった夭逝 (ようせい) の天才には、腕利きの料理人という別の顔があった・・・
画家ロートレックは、美食家であり料理人であり、1930年(昭和5年)の、今から78年も前にフランスで発刊されたロートレックの料理書は、ペンネーム「モモ」として、ロートレック本人が残したレシピを、親友のジョワイヤンが編集し、トゥールーズ=ロートレック、モーリス・ジョアイヤン共著の「La Cuisine de Monsieur Momo(独身モモ氏の料理法)」と云う本を著し・・・
そのレシピは彼の故郷アルビの多くのレストランで今も供されている・・・
http://www.colors-chords.com/products/detail.php?product_id=119
https://www.amazon.co.jp/ロートレックの料理法-トゥールーズ-ロートレック/dp/4893300911
"The Artist's Mother, The Countess Adèle De Toulouse Lautrec At Breakfast" 1883年|93.5cm x 81.0cm|oil on canvas|アルビ、トゥルーズ=ロートレック美術館蔵 Musee Toulouse-Lautrec, Albi, France トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
幼少期には「小さな宝石(仏: Petit Bijouプティ・ビジュー)」と呼ばれて、身体障害者として父親からは疎まれ「小さき男(仏: Petit Hommeプティ・トム)」と形容され、自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感し娼家での生活で描き上げた絵画やポスター。ゴッホや絵描きのモデルでユトリロの母のシュザンヌ・ヴァラドンなどと出会い、皮肉屋のロートレックはモンマルトルの歓楽街を小さな体でさまよいながら「ムーラン・ルージュ(赤い風車、仏: Moulin Rouge)」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、死後1060点からなる絵画やポスターをアルビのトゥールーズ=ロートレック美術館に残し・・・
モンマルトルの歓楽街の喜怒哀楽の坩堝に自らの小さな体を埋め、観るものに人生の本質を描き「偉大なる芸術家(仏: Grand Artisteグラン・タルティスト)」と呼ばれ、この時代の自由で闊達な大衆の姿を描きこんだ・・・
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←1894年頃、下の作品
「ムーラン通りのサロン」制作風景
"Au Salon de la rue des Moulins" 1894年|111.5 × 132.5 cm|oil on canvas|Musée Toulouse-Lautrec アルビ|アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック美術館蔵 トゥルーズ=ロートレック:Toulouse-Lautrec(1864年〜1901年) |
当時文化人が熱狂した「禁断の酒」アブサン (仏: Absinthe:フランス語での発音はアプサン) ・・・
身を滅ぼす魔性の酒と言われるアブサンにいつしかロートレックもとっぷりと浸かり、
長年の飲酒により体を壊した上、梅毒も患ってロートレックは次第に衰弱し、
上の「ムーラン街のサロン」を描いてから、
家族によってサナトリウムに短期間強制入院させられ、友人らと旅に出た後の1901年、
故郷マルロメ城の母親のもとで脳出血で37年の生涯を閉じた。
彼の言葉が残っている・・・
"On est laid, mais la vie est belle"
「人間は醜い、されど人生は美しい」
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ
Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa(1864年〜1901年)
(以下・参考サイト)
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ
(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa、1864年11月24日 - 1901年9月9日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
Misia Sert:ミシア・セール(1872年3月30日 - 1950年10月15日)は、パリで芸術的なサロンを主催したポーランド人のピアニストであった(Maria Zofia Olga Zenajda Godebska)。 彼女は定期的にポーズをとった数多くのアーティストの後援者...21歳でSertは、ポーランド人のイメグレーである20歳のいとこ、ThadéeNatansonと結婚しました。 ナタンソンは、パリの芸術界や知的なサークルが好んでいた場所を頻繁に訪れました。 彼は政治的な原因に関与し、社会主義の理想を擁護し、彼は彼の友人レオン・ブルームと共有し、ドレイファーザーであった。 マルケ・プルースト、クロード・モネ、ピエールオーギュスト・ルノワール、オディロン・レドン、ポール・シニャック、クロード・ドビュッシー、ステファン・マラルメ、アンドレ・ギデのような文化的な舞台で、サン・フィレンツェ通りのナタンソン家に集まりました...(直訳)
←“Misia” by Henri de Toulouse-Lautrec, 1897年
https://en.wikipedia.org/wiki/Misia_Sert
モンマルトル美術館|マダム・ド・モンタランベールのミュゼ訪問
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201402/montalembert.html
La butte Montmartre /Un village dans la ville
http://www.formatage.org/branches/realisations/paris2001/balade-butte.html
https://kotobank.jp/word/ブラックモン-126228
https://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ビング
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドモン・ド・ゴンクール
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベル・エポック
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MOULIN ROUGE - 1952/ 3:13
2016/09/10 に公開|Moulin Rouge (1952).mpg
Usage Public Domain Mark 1.0
https://www.youtube.com/watch?v=oxEdMhU-dIc
Topics movie trailers, dramas, biopics, Henri de Toulouse-Lautrec, Jose Ferrer
ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)|公式ページ(フランス語、英語)
http://www.moulinrouge.fr
http://www.moulinrouge.fr/histoire/chronologie-des-revues-2#!/
http://www.moulinrouge.fr/revue-feerie
<VIDÉO>
http://www.moulinrouge.fr/revue-feerie#video
http://www.moulinrouge.fr/menu/show-vip-21h
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ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)
フランス語発音: [mulɛ̃ ʁuʒ] は、1889年に誕生したフランスのパリ市内、モンマルトルにあるキャバレーである。フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根の上に赤い風車がある・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ムーラン・ルージュ
葡萄酒色の人生|ロートレック:1998年|原題:Lautrec|上映時間:128分
http://eiga.com/movie/48733/
https://ja.wikipedia.org/wiki/ムーラン・ルージュ_(映画)
映画『赤い風車』 (1952年、アメリカ映画)ロートレックを演じたホセ・フェラーはアカデミー主演男優賞にノミネートされた。身長180cm近い健常者のフェラーは、膝立ちになって膝に靴を着けることで、ロートレックの短い足の姿を再現した・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/赤い風車
←(現在のムーラン・ルージュ/2009/05/04撮影 )
カジノ・ド・パリ(Casino de Paris)
http://www.hitoriparis.com/kanko/casinodeparis.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジュール・シェレ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・グラッセ
https://ja.wikipedia.org/wiki/テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
美の巨人たち・ロートレック「アンバサドゥールのアリスティ・ド・プリュアン」↓
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/091121/
アブサン(仏: absinthe)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アブサン
https://matome.naver.jp/odai/2133309387596486201
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