織部の「利休を越えたひょうげの果てに・・・」
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さて、茶の湯の頂点に登りつめた時、そこには一体何が生まれるのだろうか?・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/古田重然
銘 わらや 陶器 一口|桃山時代・17世紀初期|五島美術館蔵 高7.8-6.5cm 口径13.8-10.2cm 底径6.4-6.0cm 重381.0g http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02013_001.html |
古田織部・・・
Furuta Oribe(1544 〜1615)
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本名・古田 重然(ふるた しげなり/ふるた しげてる)は、1543年(天文12年)美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟・古田重定の子として生まれ、代々仕えていた美濃国の守護大名土岐氏から、1567年(永禄9年)隣国の織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕える・・・
世は戦国・・・
信長は、桶狭間の戦い後の、1567年(永禄10年)美濃の稲葉山城の戦いで尾張・美濃の2ヶ国を領し、天下を力ずくでたぐり寄せる。秀吉が草履取りであった様に、織部もまた生まれは武士であっても名門でも無く、武力が優れていた訳でも無く、信長の物見係の単なる使番のパシリの青春から時代を歩み始める・・・(織部・24歳)
当時、茶の湯は堺の豪商、今井宗久や津田宗及などで流行し、信長によって論功行賞に茶器を取り入れた事により、戦国大名や戦国武将達の間で大流行し、これらを茶会で披露する事により富と権力を誇示する事に利用、配下の武将達がこぞって茶器を蒐集し茶会が開かれる・・・
その堺の豪商から千利休が頭角を現し、信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われる。
しかし、1582年(天正10年6月2日)明智光秀の謀反で、信長は寝込みを襲われ自ら火を放ち自害し、京都の本能寺でその生涯を終える・・・
陶磁器 一口|桃山時代・17世紀初期|石川県七尾美術館蔵|池田コレクション 高6.4cm 口径12.4cm http://nanao-art-museum.jp/?p=1130 |
本能寺の変後、即、秀吉は中国攻めから有名な中国大返しで明智光秀を1582年(天正10年)山崎の戦いで破り、天下人となり、秀吉によって茶道は筆頭茶頭の「利休の時代」を迎える・・・
織部がいつ頃から「茶の湯」を初めたのかは正確には解らないが、山崎の戦いの1582年(天正10年)から利休の書簡に重然(織部)の名前が見え、この頃に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとなっていく・・・(織部・39歳)
しかし、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」から利休と秀吉をみれば、利休は草庵のわび茶としての、藤原家隆の歌「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや」を茶の心髄とし、表面的な華やかさを否定した質実な美であり、秀吉の権力を誇示する、ど派手な金箔の茶室とはまるで真逆と云える・・・
よって、秀吉と利休の確執は益々溝を深め、1589年(天正17年)に利休によって大徳寺の三門の上に「金毛閣」が増築され、お寺はそのお礼に三門上層に雪駄(せった)を履いた利休の木像が安置、このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが当時の天下人、豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと云われ、利休は1591年(天正19年)に切腹の命を受け70歳の生涯を閉じる。利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、利休七哲の織部と細川忠興が利休を見送っている。死後、利休の首は一条戻橋で、自身の木像に踏ませる形で梟首されたと伝えられている・・・(織部・48歳)
利休死後、織部は利休の「人と違うことをせよ」を心に刻み茶道の新たな道を歩む・・・
秀吉がひとたらしであった様に、この乱世で何かの個性で世にのし上がり生きていくしか無い。例えば伊達政宗の人より目立つ粋な奇抜さや派手さの伊達男の様な・・・
織部においては「他より面白いこと」をもとめ「調和しない面白さ」不調和の中に生まれる自然な落ち着き、偶然の中に生まれる少し即興的で、今風には抽象的な模様の、戦国時代の前衛と云える感性が出来上がる・・・
それは、ひょこっとひん曲がった飲み口、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した、金継ぎ技法の「大井戸茶碗 (銘須弥 別銘十文字)」や、掛け軸にする為の印可状(いんかじょう)の墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟(ながれえんご)」・・・
人はそれを「へうげる(剽げる)」と言い、彼を「ひょうげもの」と呼んだ・・・
銘 須弥(別銘 十文字) 朝鮮|朝鮮時代|16世紀|東京・三井記念美術館蔵 茶碗を十文字に切り、寸法を縮めて漆で継いた茶碗・・・ http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2014_n06.html http://yansue.exblog.jp/12955281 1幅|紙本墨書 掛幅装|圜悟克勤筆|縦43.9 x 横52.4|北宋時代 宣和6年(1124) 国宝|松平直亮氏寄贈|東京国立博物館蔵 宋代禅林の巨匠圜悟克勤(1063-1135)が、その法嗣の虎丘紹隆に与えた印可状の前半。 全文の記録される『圜悟仏果禅師語録』によると、墨跡の末尾には宣和六年(1124)十二月の款記があったが、 伊達政宗の所望で半分に切断され、後半が伊達家に渡ったとされる・・・ http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TB1171 古田織部の茶|6)始祖を両断す~流れ圜悟 織部の弟子でもあった、伊達政宗はこの天下無双の墨跡を茶室に飾ろうと考えましたが、 行数が多く草庵の床に掛けるのが難しかったので、織部にこのことについてどうしたらよいか相談したところ、 織部は流れ圜悟を真っ二つに裁断することを提案したのです・・・ http://kizuna-maboroshi.doorblog.jp/archives/37871338.html |
利休が創出した草庵茶室の国宝茶室 「待庵(たいあん)」、信長の実弟・織田有楽斎の犬山城下の「如庵(じょあん)」や、三大国宝茶室の京都大徳寺龍光院の「密庵(みったん)」そして織部のは、京都市内藪内流の「燕庵(えんなん)」が残り、特に利休と織部の空間は・・・
↑ 利休の 「待庵」と織部の 「燕庵」→
利休の茶室は二窓で自然の光を生かすスポットライト効果で陰影を生かし心の静寂から自然を見つめるのに対し、織部のは窓(10窓)が多く天窓も設けられ、武功話に笑いの様な会話があったのではないかと思えるほど明るく、内と外の自然との融合の様な空間構成の様だ・・・
鳴海織部 16cm|桃山時代・17世紀|岩村(森城主)城旧家伝来 http://www.oribe.gr.jp/cgi-bin/oribe/siteup.cgi?category=3&page=0 |
そして、秀吉が1598年(慶長3年)62歳でこの世を去り、又一つの時代が終わりを告げる・・・
しかしこの間、織部は武将として時代に輝かしい何かを残した訳ではない。
信長のパシリに始まり、上洛や摂津攻略、1576年(天正4年)に山城国乙訓郡上久世荘(現・京都市南区)の代官。荒木村重の謀反に義兄を織田方に引き戻すのに成功し、秀吉の播磨攻め、明智光秀の丹波攻め、禄高は300貫と少ないながらも武将として活動し、本能寺の変後は秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに出陣し、1585年(天正13年)秀吉が関白になると、年来の功績を賞され従五位下織部助に任ぜられ、秀吉の朝鮮への文禄の役では後備衆の一人として名護屋城に在番衆として留まり、秀吉死後の、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家康軍の東軍に属している・・・
そこには天下取りなど微塵も無く、云われた事を飄々とこなし、なんの武功も無く、まるで乱世を気ままにぶらぶら歩き、逍遥(しょうよう)と生きた武将の姿がある・・・
しかし、事がおこる・・・
関ヶ原の戦い後、家康は子の秀忠に総てを譲り、駿府で残る豊臣の総てを消し去る為の「方広寺の梵鐘事件」から、大坂冬の陣、そして夏の陣へ・・・
織部も方広寺の梵鐘の「国家安康」の鐘銘を草した清韓和尚をもてなした茶会を開きそれが家康の怒りに触れる・・・
しかし、秀忠の一番茶人として家康側に仕え、豊臣方でも徳川方でも無く、大坂の陣では、織部の子供達は真田のように二つに分かれ双方で戦っている。勿論、利休後は当代一となった織部の茶の弟子は豊臣、徳川共に多数おり茶の席で幾多の話題が出たはずであり、権力者が人間的に立派で、深い教養を身につけているわけではない。しかもその席で、政治か時勢か時代の評論家の様に、辛口の政治評論家になった時、その時事評論は全国の各藩に及んでいたと思える・・・
そして家康側から、大坂夏の陣に豊臣家への内通を疑われ、それは言い掛かりか、濡れ衣の様に、家康との確執が生まれ・・・
家康は云う「この世にひょうげものはいらぬ」・・・
織部、答えて云う「かくなるうえは、さしたる申し開きなし」 と、・・・
そして、人を押し除け世を治める野心も無く、茶を嗜み時代を逍遥(しょうよう)と生きる織部に、家康から切腹の沙汰が下った・・・
時代に潜む「権力と美」のなかで「ひょうげ」に時代を生きた人生の果に、
戦国の世に陶器を芸術としてとらえ、利休を越えて前衛と云う新たな感性を取り込み、
古田織部は73年の生涯を終えた。
死後、古田家は廃絶し、時代からすべて消し去られる・・・
しかし如何なる権力であろうと「美」を権力で消す事は出来ない・・・
Furuta Oribe:1543年(天文12年)〜1615年(慶長20年)
織部の茶の湯の弟子とされる人物には、
小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦、毛利秀元らがいて、
その弟子の光悦から光琳へと、ある種「琳派」へと繋がり、
100年後の光琳や弟の緒方乾山など、前衛としてのその流れを持っているようだ・・・
そして、徳川の世が終わり、明治になると織部の「ひょうげ」の「美」は復活し、
明るい茶室空間、堅苦しくない「笑」のある、
織部の「人をもてなす心のひょうげた美しさ」は今も愛され続けている・・・
(以下・参考サイト)
古田 重然(ふるた しげなり、ふるた しげてる)
天文12年(1543年)慶長20年6月11日(1615年7月6日は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として知られる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/古田重然
古田織部美術館 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/古田織部美術館
一般社団法人ORIBE美術館 桃山時代の織部焼美術館
http://www.oribe.gr.jp
古田織部美術館
http://www.furutaoribe-museum.com
https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
利休七種茶碗あるいは長次郎七種とは、楽焼の創始者・長次郎作の茶碗のうち、千利休が名作と見立てたと伝えられる七種の茶碗・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/利休七種茶碗
【長次郎七種】
初代楽長次郎作の茶碗のうち,千利休が名作として選んだと伝えられる七種。黒楽(くろらく)3種の大黒(おおぐろ)・鉢開(はちびらき)・東陽坊(とうようぼう)、赤楽(あからく)4種の早船(はやふね)・検校(けんぎょう)・臨済(りんざい)・木守(きまもり)の七碗をいう。利休七種。
http://www.weblio.jp/content/長次郎七種
https://ja.wikipedia.org/wiki/長次郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/茶室
妙喜庵(みょうきあん)茶室待庵 | 山崎観光案内所
http://oyamazaki.info/archives/761
国宝茶室 待庵
http://www.eonet.ne.jp/~myoukian-no2/newpage3%20taian.htm
http://kanocd.exblog.jp/m2011-09-01/
有楽苑の如庵 (じょあん)
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/
燕庵(えんあん)・・・非公開
https://kotobank.jp/word/燕庵-215356
京都大徳寺龍光院の密庵(みったん)
http://kanocd.exblog.jp/m2011-09-01/
https://ja.wikipedia.org/wiki/龍光院_(京都市北区)
https://ja.wikipedia.org/wiki/藪内流
https://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長
https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康
方広寺鐘銘事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/大坂の役#.E6.96.B9.E5.BA.83.E5.AF.BA.E9.90.98.E9.8A.98.E4.BA.8B.E4.BB.B6
国家安康君臣豊楽
http://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺
「へうげもの」
(読みはひょうげもの、ラテン文字表記はHyouge-mono)
山田芳裕(やまだ よしひろ)による日本の漫画作品、またそれを原案としたアニメ。講談社刊『モーニング』にて隔号連載中。第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作。2011年(平成23年)春にNHK BSプレミアムにてアニメ化された・・・
作者山田芳裕
出版社講談社
掲載誌モーニング
レーベルモーニングKC
発表号2005年38号 -
発表期間2005年8月18日 - 連載中
巻数既刊22巻(2016年6月現在)
https://ja.wikipedia.org/wiki/へうげもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/山田芳裕
古田織部 金継ぎ : 心の時空
http://yansue.exblog.jp/12955281
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2014_n06.html
弐代目・青い日記帳
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=3743
石川県七尾美術館
http://nanao-art-museum.jp/?p=1130
印可状(いんかじょう) 流れ圜悟(ながれえんご)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=385
http://www.emuseum.jp/detail/100223/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=65&num=8
https://ja.wikipedia.org/wiki/禅林墨跡
タイトルにもなっている「へうげる(ひょうげる)」は「剽げる」とも書き、「ふざける」「おどける」の意
https://ja.wikipedia.org/wiki/へうげもの
数寄者(すきしゃ、すきもの)は芸道に執心な人物の俗称。「数奇者」と書く場合もある。
桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/数寄者
蒲生氏郷、筆頭/細川忠興(三斎)/古田重然(織部)/芝山宗綱(監物)/瀬田正忠(掃部)/高山長房(右近/南坊)/牧村利貞(兵部)
https://ja.wikipedia.org/wiki/利休七哲。
懐石は茶事の一環であり、茶を喫する前に出される軽い食事で、酒も提供されるが、目的は茶をおいしく飲むための料理である。懐石とは茶の湯の食事であり、正式の茶事において、「薄茶」「濃茶」を喫する前に提供される料理のことである[1]。利休時代の茶会記では、茶会の食事について「会席」「ふるまい」と記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かる...
https://ja.wikipedia.org/wiki/懐石
本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/茶道
古田織部~茶人も極め天下一の茶人となった武将 -戦国武将900記事
http://senjp.com/furuta/
http://ryogapress.net/history-literature/literature/shiba/2119
千利休の弟子 天下の茶人「古田織部」の生涯 - 鳥影社
http://www.choeisha.com/column/column02.html
織部焼(古田織部について) - 全国やきもの案内・日本六古窯
www.utuwa.com/utuwa/w05oribe1.html
千利休より古田織部へ/久野治: DESIGN IT! w/LOVE
http://gitanez.seesaa.net/article/68890897.html
”へうげもの”天下に挑む 古田織部 時代との戦い
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/45720684.html
オリベコレクション (館蔵品) - ORIBE美術館
www.oribe.gr.jp/cgi-bin/oribe/siteup.cgi?category=3&page=0
黒織部沓形茶碗 銘 わらや - 五島美術館
http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02013_001.html
織部焼(おりべやき)は、桃山時代の慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された陶器 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/織部焼
織部焼き誕生の歴史的側面 - ORIBE美術館
http://www.oribe.gr.jp/cgi-bin/oribe/siteup.cgi?category=2&page=4
逍遥(気ままにぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き)武将茶人 古田織部の最期
http://www.sankeibiz.jp/express/news/150127/exg1501271040001-n2.htm
へうげもの茶人②・古田織部~ちょこっと官兵衛官兵衛memoその189 ...
「他より面白いこと」をもとめ「調和しない面白さ」不調和の中にある落ち着き
http://ameblo.jp/cotyounoyume/entry-11772964988.html
太閤山荘 擁翠亭
https://ja.wikipedia.org/wiki/擁翠亭
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