ぶらり京都-145 [大山崎山荘] アサヒビール大山崎山荘美術館
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時は戦国の終わり・・・
本能寺で信長死後の「秀吉の中国大返しの山崎の戦い」その天王山の中腹にその山荘は聳え建ち、大阪から京都方面へ向かうと、車窓から北方の山の中程に顔を覗かせる・・・
アサヒビール大山崎山荘美術館|京都府乙訓郡大山崎町|京都市山科区小野御霊町|Googleマップ
(2018年3月28日撮影)
山荘は関西の実業家・加賀正太郎が昭和時代初期に建物や、庭園や道路、家具、調度品など総て自ら設計、デザインして建てた、英国風で三階建てのイギリス・チューダー様式で、当時「加賀山荘」と呼ばれ、その後、建物を修復整備し、安藤忠雄が建築設計の新展示室が併設され、1996年に「アサヒビール大山崎山荘美術館」として現在に至っている・・・
「加賀 正太郎」(かが しょうたろう:1888年〜1954年)
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大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭業などで成功した。
1923年の茨木カンツリー倶楽部設立に参画し、理事などを務めた。また1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を構成して同社の筆頭株主となり、社内では「ご主人様」と呼ばれた。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。同年喉頭癌のため大阪赤十字病院で死去・・・
「アサヒビール大山崎山荘美術館」
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実業家・加賀正太郎が昭和時代初期に建物の他、庭園や道路、家具、調度品なども含めて自ら設計、デザインして建てた英国風の山荘の建物を復元整備し、1996年に美術館として開館した。
美術館のコレクションの中核は、朝日麦酒株式会社(現アサヒビール)の創業者として知られる関西の実業家・山本為三郎の収集したコレクションである。山本は大正から昭和初期に柳宗悦らが提唱した「民芸運動」の賛同者であり支援者でもある。当美術館には民芸運動にかかわる河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉、棟方志功および芹沢銈介といった作家たちとの交流の中で収集された作品が展示されている。陶磁器・染織・絵画などの作品や、彼らにインスピレーションを与えた朝鮮王朝時代の古陶磁、イギリスのスリップウェアなどの古陶磁といった、
生活用品でもあった美術品がおさめられているが、これらは山本自身が日常親しく愛用したものばかりである。ほかにも、クロード・モネの絵画『睡蓮』連作を複数所有するほか、モーリス・ド・ヴラマンク、アメデオ・モディリアーニ、パウル・クレー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ムーアなど、第二次世界大戦前後の近現代美術も展示されている。
建物は加賀正太郎が昭和初期の1932年に完成させた三階建てのイギリス・チューダー様式の山荘である本館と、それとは別に隣接して地下に作られた安藤忠雄設計の地中館、山手館からなる。
加賀正太郎の没後に所有者が変わってから荒廃し、取り壊して高層マンションを建設する計画があったが、保存運動が高まり1996年に今日のように私立美術館として再生された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アサヒビール大山崎山荘美術館
<ブログ内・以前の記事>
緑の歳月 [スイカの食べ方]
2008年 09月 29日
https://guchini.exblog.jp/9213354/
(以下・参考サイト)
アサヒビール大山崎山荘美術館
築約100年の名建築「大山崎山荘」、安藤忠雄設計「地中の宝石箱」「夢の箱」で、民藝運動ゆかりの作品や、モネ《睡蓮》等を展示。天王山中腹に位置し、テラスからの絶景、 美しい庭園など四季折々に楽しめます。
http://www.asahibeer-oyamazaki.com
アサヒビール大山崎山荘美術館 | 喫茶室のご案内
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/rest/opencafe.html
展覧会・イベント一覧
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/tokubetu/
濱田庄司展 スリップウェア風ケーキのご紹介
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/blog/cat663/
アサヒビール大山崎山荘美術館 | 山崎観光案内所
http://oyamazaki.info/archives/425
<チョットより道>・・・
「宝積寺」(ほうしゃくじ:宝寺)
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいう。
天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。
直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれている・・・
元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた・・・
大正4年(1915年)には夏目漱石が当地を訪れ、漱石は宝積寺の隣地に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/宝積寺
http://oyamazaki.info/archives/1407
環境共生住宅の原点といわれる建築・・・
「聴竹居」(ちょうちくきょ)
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藤井 厚二(ふじい こうじ)
1888年明治21年〜1938年:昭和13年)
日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学建築学科卒。広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、建築学科を卒業後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間欧米諸国を巡遊...1920年、藤井は天王山の麓、京都府大山崎の山手に1万坪もの土地を購入。この地でほぼ2年ごと計4回、自邸を建て、それを知人に譲り、また自邸を建てるということを繰り返し、これらの住宅に実際住むことにより日本の風土に適した住宅の在りようを追求した・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤井厚二
お問い合わせ - 聴竹居
(見学希望日の90日前から3日前まで)
http://www.chochikukyo.com/contact/index.html
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聴竹居(ちょうちくきょ) | 山崎観光案内所
http://oyamazaki.info/archives/472
http://www.chochikukyo.com/contact/index.html
http://sumai01.hatenablog.com/entry/2015/09/16/091003
https://www.jalan.net/kankou/spt_26303ae2192045660/
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